ニュースの見過ぎは体に悪い? – 御田寺圭

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あえて「ネガティブ」な見出しにするメディア

7月初旬のことだ。

新型コロナウイルスの「変異株」関連のニュースが世間をにぎわしていた。それを見て、私は心底気落ちしてしまった。変異株の脅威のせいでそうなったのではない。ニュースのタイトルのせいである。「ファイザー製ワクチン、イスラエルで有効性が大幅低下」と題されたこのニュースだった。

案の定というべきか、SNS上では大きなバズが発生し、人びとは不安や恐怖に包まれていた。パンデミックは終わらない。変異株にはワクチンも効かないのだ――などと言いながら。

だが本文をよくよく読んでみると、「感染増加の兆候にもかかわらず、同省の最新データからはファイザー製ワクチンに重症化を防ぐ効果が認められ、入院予防の効果は93%だった。」という統計的事実が書き添えられていた。この事実を踏まえれば、本来つけるべきタイトルはさしずめ「ファイザー製ワクチン、変異株に対しても入院や重症化の防止にはなおも高い効果を維持」であるはずだ。このタイトルであれば同じニュース文面でもオーディエンスの評価はまったく変わっていただろう。

しかしニュースメディアはそうしなかった。なぜ、重症化予防率は依然として90%以上を保っているという肯定的な事実を差し置いて「有効性が大幅低下」などと不安を煽るようなラベリングをマスメディアは選ぶのだろうか。このウイルスの大きな問題のひとつは「感染すること」だけでなく、「重症化すること(による生命のリスクと、それにともなう医療リソースの枯渇)」だ。それが防げているということは、このワクチンはいまも一定の有効性を担保しているのである。

ウェブメディアはクリックされなければ広告収益を得られないし、記事のタイトルや冒頭しか読まない人間の割合を考えると、こういう煽情的でネガティブなタイトルにする誘惑に抗えないのはわかる。しかしながら、「社会の公器」たる報道機関が、その実やっていることはPV欲しさに大衆の不安を煽るのでは、さすがに節操がないと言わざるをえないだろう。(※)

想像以上に快適?「ニュース・ダイエット」をやってみた

2020年初頭から今日にいたるまで、連日のように繰り返される「不安」のニュースにほとほとうんざりしていたころ、読者からメッセージを貰った。

御田寺さん、『News Diet(ニュース・ダイエット)』という本は知っていますか? あれを読んでから、いっさいニュースを見なくなったのですが、本当に快適です。ぜひ試してみてください。

推薦された同著は、タイトルのとおり「ニュース断ち」の実践をひたすら解説しこれを推奨するものだ。「ニュースを一切見ないと、これだけよいことがある(ニュースを見てしまうことで知らず知らずのうちに被っている損失はこれほど大きいのだ)」ということを執念深く伝えつづける内容となっている。著者は『Think Smart』『Think Right』などの世界的ベストセラーで知られるスイスの作家ロルフ・ドべリだ。


News Diet(ロルフ・ドべリ) – Amazon.co.jp

メッセージを貰ったのが今年の2月の終わりごろだったと記憶している。私は推薦された本を読んで、およそ5カ月間、だれに宣言するでもなく単独で「ニュース断ち」をひそかに敢行してみたのである(周囲には内緒で実践したのは、あえて「ニュースを見てない」などといちいち周囲に宣言すると、情報社会から背を向けた不届き者か中二病患者かと勘違いされるのが嫌だったためだ)。あえてニュースを見るのは、こうして執筆の仕事を担当編集から依頼されたときくらいに絞っていた。

――さて、実際に「ニュース断ち」をやってみると、それで日常生活に入ってくる「情報量」は大幅に減少してしまったことは間違いない。いま日本で起きている出来事や情勢がわからなくなる。自分が情報社会から遠ざかっていくのをそれなりに感じる。時折、疎外感や孤立感をともなうこともあった。だが、それ自体でなにか生活を営むうえでの困難や苦痛が生じたかというと、けっしてそんなことはなかった。この点は強調しておきたい。

私はおよそ半年間の生活において、テレビやラジオやインターネットのニュース・ソースを定期巡回のルーチンから除外した。だがそうしたところで、誇張でなくなにも困ることはなかったのだ。ただただ、自分の生活にはなんの変化もなく――誇張でなく本当になんの変化もなく――いつもどおり過ぎ去っていったのだ。いつもの生活、しかしそこに、ニュースがない、ただそれだけだった。

むしろ、ニュースを閲覧することに費やしていた時間が浮いた分だけ、ゆっくり休憩したり、生産的・創造的な作業に使えたりした。また、不穏なニュースを見たときすぐに脳裏に浮かぶ「SNSの反応」で神経をとがらせたり波立たせるような機会もなくなり、認知的・精神的にもきわめて快適だった。いったい自分はどれだけの時間と精神的安定性をドブに放り込んでいたのだろうかと悔いるばかりだった。

コロナがどうのこうの、オリンピックがどうのこうの、国会議員がどうのこうの、スガ政権がどうのこうの、それをめぐるインターネットの言い争いがどうのこうの――それらはすべて、自分の生活や日々なすべきことにとってまったく重要・有益なことではなかったのである。

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