SNSに「共感」を求める危険性 – PRESIDENT Online

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SNSで多くの人とつながれるのに、孤独を感じる人は減らない。『14歳からの個人主義』(大和書房)を出した、NHKエンタープライズエグゼクティブ・プロデューサーの丸山俊一さんは「SNSで自分の気持ちをシェアをしても、むしろ、自分の心をすり減らす恐れもある」という――。

夜の街でスマートフォンを使う若い女性
※写真はイメージです – iStock.com/Satoshi-K

SNSがもたらした光と影

生まれたときからインターネットは常識という世代も増え、スマートフォンが日常生活で欠かせないコミュニケーションツールになっている人も多いことでしょう。

将来の夢はユーチューバーという人もいるかもしれませんね。誰もが簡単に発信できる世の中になったことは、すばらしいことです。

しかし、光もあれば影もあります。

「誰もが簡単に発信できる」ことで、表現する人々が増え、その幅も広がるところまではよいのですが、新たな現象も生まれています。

表現することへの「気軽さ」は、ときに「いい加減さ」へとつながり、その場だけの感情や思いつきで人を中傷したり攻撃したりするようなことも起こります。

皮肉なことに、人を傷つけるような言葉のほうが「ホンネを言ってくれている」と支持を集め、多くの人々の目に届くようなことも起きます。すると注目されたこと自体が面白くなり、だんだん「発信すること」自体が目的化し、発言内容をエスカレートしていく動きも出てきます。

「いいね」という反応をただもらいたいがために、自分本来の考えではないような言動を始めてしまう行為も出てきます。

ただ反応がほしいという行為で、じつは徐々に、あなた自身の心の中の大切な部分が失われているのです。

また動画サイトでは、再生回数を稼ぎたいがための過激なパフォーマンスも生まれるという具合で、こうなると、もはや「自己発信」どころか「自己欺瞞」、つまり自分を欺き、自分らしさを捨てるために「発信」しているような、皮肉な現象が生まれているのです。

すべて「承認欲求」のしわざなのか

実際、こうしたことに疲れ果て、SNSを一切やめてしまったり、昔ながらのケータイに変えてしまったり、という人も増えているようです。

本来の意味での「自己」表現ではなく、他者の嗜好を必死になって読み取り、「いいね」や「フォロワー」の数を集めようとする行為。これでは、個人を解放したはずの技術で、むしろ精神を病まされているようなものではないでしょうか?

世に広まった「承認欲求」という言葉も、「承認欲求、強すぎ」など、なんだか妙な非難のレッテル貼りに使われているように思います。

そもそも「承認欲求」「自己実現」などの言葉が社会学などの枠組みからあふれ出し、本来の意味から少し違ったニュアンスで、幅広く使われるようになったのも、人々の発信が日常的になったからと言えるでしょう。

現代の情報技術が「便利」で「快適」な社会を作っていくほどに、じつはその反面で人々を疑心暗鬼にさせ、不安や葛藤を生み、何より、一人の人としてかけがえのない人生を歩んでいく力を削いでしまっているとしたら、なんともおかしな、残念な話です。

「気持ちをシェア」することは必要か

そもそも、たとえば、ツイッターやフェイスブックなどを使っていいのは、一般的に13歳以上ということになっています。何の気なしに始め、いつの間にか、使うつもりが使われることにならないために、14歳のあなたと一緒に、少しだけ、最初の段階から考えておきたいことを、お話しておきましょう。

「いまどうしてる?」
これが、ツイッターを使うあなたに、表示されるメッセージです。

「その気持ち、シェアしよう」
これは、フェイスブックを使うあなたに、表示されるメッセージです。

ちょっと、考えてみましょう。なんだか少し、不思議な気がしませんか?

どうして「いまどうしているか」を、不特定多数の人々に知らせる意味があるのでしょう? どうしてあなたの「気持ち」を多くの人々に知ってもらう必要があるのでしょう? 「友だち限定」の機能にすれば意味があるという人もいるかもしれませんが、簡単につぶやいてしまう前に、自分の気持ちを共有したいという、あなたの心の状態自体を、振り返ってみてほしいのです。

さびしいから? 気持ちがまぎれるから?

こうした思いからだとしたら、既にそこに危うさが潜んでいるのではないでしょうか?

どちらの呼びかけにも、本来は答える必要はないのです。ネット上にこうしたシステムを作ったエンジニアの要請に合わせるように自分をさらすことも、感情を示すことも、必要ないのです。

夕暮れ時の渋谷交差点
※写真はイメージです – iStock.com/Yongyuan Dai

「自分を表現したつもり」に潜む危険性

ちょっとへそ曲がりの意地悪な言い方をし過ぎたでしょうか?

ただ、システムにふれた最初に、少しだけ覚えたかもしれない違和感をいつの間にか忘れていってしまうことから、使うはずの技術に使われるようになってしまう道は、おそらく一直線です。

「共感してもらえた」という素朴なうれしさから、どんな言葉を連ねれば「いいね」をもらえるのか? どうしたら「人気者」になれるのか? どう書けばフォロワーを増やせるのか? あっという間に、そんなことばかりを考えるようになってしまいかねません。

あなたが投稿に夢中になっているときも、プラットフォームの運営側は、消費行動の分析や拡散の影響力をどう使うかなど、強大なシステムの論理を駆使していることも忘れないでください。

自分を表現したつもりで、自分をすり減らす逆転が、そこに生まれてしまいます。

私は発信しないで「いいね」をするだけだから平気、と考える人も危険性を見落としているかもしれません。あなたが何気なくそこで押した「いいね」も、押された側の投稿者だけでなく、第三者の目にも明らかになり、それが思わぬハレーションを起こすこともあるのです。

単なる記号である「いいね」も、見る人によって温度差があります。軽い挨拶のつもりも、強い意思表示と読み取られ、トラブルに発展する可能性もときにあります。

SNSに「共感」を求めることの罠

楽しく「友だち」を広げる可能性もあるSNSについて、悪い面ばかり言い過ぎたでしょうか?

その特性をよく考えたうえで有効な使い方に限定し、ほほえましいやり取りをしている人たちまで、脅かしたいわけではありません。しかし、残念ながら、ネットに対する微妙な温度差から、大きな行き違いが生じることは実際にあります。

思わぬ誤解が生まれ、本来目指されるべきコミュニケーションとは真逆の方向に展開することもよく目にするようになっているのです。

もちろん、イベントなどを多くの人々に知らせるなど、情報を幅広く伝える際、有意義なものでしょう。

しかし、「いまどうしてる?」などの呼びかけに象徴されるように、あなたのプライバシーを露出させ、あなたの感情を揺さぶる仕掛けをはらんだメディアであることは、最初の段階で意識しておくべきだと思います。

本来自律した、自分というものを持っている人であれば、簡単に感情を晒す必要もないはずなのですから。さびしさから「共感」を求める、こうしたSNSの誤った使い方が、社会を幼稚化させてしまった影の部分にもやはり注意すべきだと思います。

それは本当の意味での「共感」ではないのですから。

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