警告:本稿の題名は連載第5回と同じく、北村氏と同様に英文学者で批評家だった福田恆存の著名な論考に倣ったものである。教養ある北村氏は当然ご存じのことと思うから、彼女のファンは「タイトルが失礼だ」などと無知なコメントを拡散して、多忙な「さえぼう先生」にお手数をかけないように。
前回(連載第6回)の範囲で、北村氏の連続ツイートにおける主要な「指摘」が事実に反することはすでに論じたので、積み残しとなっていた論点のうち、まず彼女が3月28日の「論座」、および7月29日のAERAdot.(初出は『一冊の本』2021年8月号)に載せた2つの拙稿に寄せている表現面での批判を検証しよう。以下のとおり、それらは非常に拙い内容だ。
上記のツイートの意味がわかる人がいるだろうか。学術雑誌ではない「論座」の読者にはなじみが薄い人もいるだろう「フェミニスト批評」という用語を、「フェミニストとしての批評活動」と呼び換えることになんの問題があるのか(むろん、北村氏が「私はフェミニスト批評をしているが、フェミニストではない」と主張されるなら、話は別であるが)。
学者としての彼女の本業について「北村紗衣氏(英文学)」と明記し、その他に批評活動「でも」知られていると記した私の記述と、「そもそも私はシェイクスピア研究者です」という北村氏の認識は同一であり、クレームを入れられる覚えはない。
こちらの指摘も、まったく意味がわからない(彼女の発言の文脈は、AERAdot.の拙稿3頁を参照)。この場合、引きあいに出すのに適切な比喩は「外交の観点から近代日本の政治を研究する」だろう。北村氏自身が自らおかしな言い換えをして「ちょっと変な説明ですよ」と言われても、それは同氏が変になるように言い換えただけのことである。
再び「論座」の拙稿についてのこの指摘にお応えしよう。知名度は関係がある。なぜなら、同記事が有料記事になってしまったのをよいことに、北村氏は原文脈を示していないが、私が知名度に言及したのは以下のような文面だからだ。
「しかし、呉座氏は北村氏以上に、知名度のある学者である。一連のツイートからは専門である日本中世史の分野でも、(呉座氏の視点では)かなり偏ったスタンスでのジェンダー研究が台頭してきたことに、批判意識を抱いていたようだ。
そうした話題と絡めてであれば、「学界におけるフェミニズムの現状を問う」といった形で、呉座氏が寄稿できる媒体は紙とネットとを問わず、複数あったものと思われる。」
たとえばまったくの一般人、ないし北村氏ほどの知名度を持たない無名の学者が「さえぼう先生のフェミニズム活動に疑問を感じたので、批判を書かせてください」と頼んでも、応じる媒体は乏しいだろう。掲載したことにより、人気学者である北村氏や、そのファンに遠ざけられることを恐れるからだ。
それに対し、呉座氏は(著書の売り上げ部数等から考えて)北村氏以上の知名度を誇り、「論争的な文章にはなるが、載せてほしい」と各種媒体に言える立場にあった。そうであれば、フェミニズムの現状に不満があるならTwitterなどで発散するよりも、公の場で堂々と論じればよかったではないかと呉座氏を批判しているのであって、北村氏との知名度比較を主題にしているのではない。
「論座」およびAERAdot.についての表現面での「指摘」には、上記ですべて応えたわけだが、率直に言って、文学研究を専門とし批評活動もする北村氏が、本気でこうした幼稚な日本語の誤読に基づく批判を展開しているとは、私は思っていない。
むしろ彼女の振る舞いは、日本語を読み解く力の低い「読者」を想定し、彼ら彼女らの前で「元になった與那覇の文章などに当たるまでもなく、私(=北村氏)が論破していることは明らかだ」というパフォーマンスを見せることに、主眼を置いたもののように思われる。AERAdot.の拙稿(特に4頁)にも記したとおり、その背景にあるのは重度の人間不信――「自らの読者・視聴者も含めて、どうせ世の中の人間の大半はバカなのだから、真摯に説得するより『騙して』操ったほうが効率的だ」といったニヒリズムの社会的な蔓延であると、私は考える。
実際にそうした振る舞いを見せる、SNSで(も)広く知られた有識者は多い。たとえば先述した北村氏の「知名度」に関する誤読は3月以来のものだが、これに「いっちょかみ」して当時炎上を煽った中にはこうした人物(ライター/ラジオ司会者)もいた。
北村氏からいただいた批判に則り、上記のように考察する根拠として(元)歴史学者らしく、彼女の「人間観」がよく示されていると思われるツイートも発掘した上で示しておく。
こうした人間を信じず、したがって対話の相手はむろんのこと、実のところ自分が用いる言葉さえも信じず、「私は勝っている」というポーズを演じ続けるためなら手段を選ばないSNS言論人たちと「論争」するのは不毛であるから、北村氏のツイートに逐一お応えするのは今回を最後とさせていただく。しかしその前に、彼女が「指摘」した他の論点については、きちんと回答しておこう。
呉座氏と日文研との裁判が進行している最中に、「数年にわたって」誹謗中傷されたといった誇張された情報を拡散するのは問題だとした私の指摘に対し、北村氏は大略、「3年前でも『数年』と呼ぶことはでき、2018年の時点でも呉座氏による自分(=北村氏)への中傷は見つかる」と応じた。これに対しては、吉峯耕平弁護士による以下の反論を示せば十分であろう。
なお北村氏は吉峯氏と対立関係にあるらしく、同氏について「とくに信用できるわけでもない人」(原文ママ)と述べているが、私は単に「呉座氏の鍵アカウントを長くフォローし、発言の履歴をリアルタイムで見てきたと思われる人」として、彼を引用しただけである(面識や交流はない)。
しかし(元)歴史学者なら他人に依存せず、自分で手を動かして調べてほしいという北村氏の主張には一理あると思われたので、私の検索ミスでなければ北村氏は既に削除しているように思われる以下のツイートを、さる場所から復元させていただいた(呉座・北村両氏をめぐる問題については何者かに関連情報が非公開にされるという現象が多発しているため、あえてリンクは張らないこととする)。
これは北村氏が、私の連載第2回(11月4日7:00掲載)を読了後に行った発言で、同稿では冒頭近くの最も目立つ箇所に、呉座氏が北村氏を揶揄してきた期間は「正確には1年半」だと記しておいた。タイムスタンプに従えば、それを彼女は同日の11:12には読了した上で、私が連載第5回で引用したとおり、直後の11:25に「数年にわたって」という表現で呉座氏の揶揄行為について拡散したことになる。その当否は読者に委ねたい。
また同じ連載第5回の「付記」については、もとより與那覇の「疑問」「推測」に留まると明記して述べたことであるから、北村氏としては「呉座氏から受け取った謝罪文を、同氏による掲示が終了した後も、一方的かつ恒常的にオンラインで配布する」ご自身の行為を、法的にも社会通念上も問題がないものと見なしているということで承った。北村氏がおっしゃるとおり私に「透視能力」はないし、かつ私は呉座氏の法的な代理人でもないので、あとは当事者および法律家の判断を待つこととしよう。
7月のAERAdot.の記事にも明記したとおり、私は北村氏を含めて、呉座勇一氏をめぐる炎上やオープンレターに関わった「個人」に対しては、いまさら特に含むところはない。私が関心を持つのは、相応の学問ないし言論上の実績があるはずの人々が、なぜ今日の社会ではかくも粗野な「集団」としての暴走を見せるのか、その原因の解明だ。品位なきSNS上のレスポンスバトルに目を眩まされることなく、本連載はその探求を続けてゆく。
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與那覇 潤
評論家。歴史学者時代の代表作に『中国化する日本』(2011年。現在は文春文庫)、最新刊に『平成史-昨日の世界のすべて』(2021年、文藝春秋)。自身の闘病体験から、大学や学界の機能不全の理由を探った『知性は死なない』(原著2018年)の増補文庫版が今月発売された。
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