「忘れてはいけない」戦争の悲劇 – 毒蝮三太夫

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共同通信社

今年も8月15日という日が来た。世間ではこの日を「終戦の日」「終戦記念日」と言うのが一般的だ。でも俺は「敗戦の日」だってことにこだわりたいんだ。終戦ではなく敗戦と言い続けたい。敗戦の悔しさを忘れるなって話ではない。敗戦となる戦争をしたことがいかに日本を不幸にしたか忘れるなよってことだ。

どうして日本はあんな戦争をしてしまったのか。その結果、国民がどれほど悲惨な思いをしたのか。その愚かな歴史を未来永劫、絶対に忘れてはならないという思いがあるよ。この8月15日を1982年の閣議決定では「戦没者を追悼し平和を祈念する日」としているんだよな。確かにそれも含むだろうけど全部ではないよな。とても大事なことを抜いた言葉になってるよ。

8月15日をきちんと語り継ぐ言葉にするなら、「あの戦争に至った愚かな歴史を反省し、戦争によって不幸な思いをしたすべての人々に思いを馳せ、戦没者を追悼し平和を祈念する日」と言いたいな。

9歳で聞いた玉音放送「ウレシくてたまらなかった」

1945年8月15日 グアムの収容所で無条件降伏を聞く捕虜たち/Getty Images

日本がアメリカに敗戦した昭和20年(1945年)8月15日、俺は9歳だった。空襲に焼けただれた東京を離れ、親父の実家があった神奈川県戸塚の汲沢(ぐみざわ)という処に疎開していた。そこでラジオから流れる玉音放送を聞いたんだ。

9歳の俺にはラジオから流れる言葉が難しくて詳しくはわからなかったけど、戦争が終わったことを伝えてのは理解できた。周りの大人たちは溜息まじりにどよめいたり、泣いてる人もいたりして、只ならぬ重たい空気になっていたっけ。

その時の俺はさ、ウレシくてたまらなかったんだ。これで戦争はおしまい、空襲はもうやってこない、焼夷弾を落とされ、街や家を焼かれて、熱くて痛くてヘトヘトになって逃げ回る惨めな思いをしなくていい…、そう思えて跳び上がりたいぐらいだった。でも周りを見たらその喜びを表に出せる空気じゃなかったからさ、黙ってじっとしていたよ。

俺が戦争でいちばん悲惨な思いをさせられたのが昭和20年5月24日、25日の城南大空襲だ。山の手大空襲とも呼ばれたこの空襲で、B29が500機も襲来した。24日には762人、25日には3651の人が殺されてしまった。

24日の深夜に始まった大空襲で、俺は夜を徹しておふくろと逃げ回った。そうして空襲がようやく去って朝が来て、焼けた家の方に向かって歩いていく途中、道端のそこらじゅうに死体が転がっているのを見たよ。しつこい焼夷弾の消火に追われるうちに逃げ切れず炎に巻かれてしまった死体、爆風に吹き飛ばされて首の無い死体、手の無い死体、そういうのがごろごろしてた。

事実を伝えるのが戦争を知る世代の役割

あとこの日、こんな経験もしたってのを去年出した本に書いてある。ちょっとその部分だけでも読んでくれよ。

<「たぬきババアとゴリおやじ」(著・毒蝮三太夫 2020年 学研)>

うまいこと家が焼けずに済んで、防空壕から這い出てくる人もいた。
おふくろの目にとまったのは、そんな防空壕のひとつだった。

おやじがつくったのと同じ、地面に掘った半地下式の防空壕だ。入り口をトタン板でふさいであって、中から開けられないでいるのか、まだ閉まったままだった。

おふくろはトタンをどかして、中に声をかけた。

「空襲、終わりましたよ」

俺がその肩越しにのぞきこむと、おやじがつくったのよりもずっと深くて広い、立派な防空壕だった。穴の底には、避難した人たちが五人ほど並んで座っていた。

みな、驚いたように、こっちを見上げていた。

誰も、何も答えない。大きな目で、こっちをじっと見つめたままだ。穴の薄闇の中で、その白目がぎょろっと浮かんで見えた。

「空襲は、終わりましたよ」

もう一度言ったおふくろは、そこでぐっと口をつぐんだ。

みんな、死んでいるのだった。火傷もなく、血の出た傷のひとつもないのに、そろって死んでいるのだ。

窒息死だった。

燃える焼夷弾が大量に酸素を使って、それで防空塚の酸素が吸い出されて、息がつまってしまったのだ。そろって目を見開いたまま、その人たちは、防空壕の出口を見つめて死んでいた。

これがさ、9歳のガキだった俺が見た戦争だよ。昨日まで暮らしていた街も家も一晩で焼き払われ、そこで生活していた大勢の人があっという間に死体になってしまう。それが戦争であり、住む街を容赦なく焼かれるような敗ける戦争ってことなんだ。俺はそこにあった事実を、この目で見たものを、出来る限り伝えていきたいと思う。それが俺の役割であり、戦争を知る世代の役割だと思ってるよ。

忘れてはならない「4つの日」

写真AC

毎年8月になると、この言葉が思い浮かぶよ。永六輔さんもいつも言ってたっけ。

『八月や六日九日(むいかここのか)十五日』

8月6日は広島に、9日は長崎に原爆を落とされた。そして15日に日本は敗戦した。昭和20年8月はそういう苦難の日が続いた。それを忘れてはならないぞという警句だ。

さらに、先の天皇陛下、今の上皇さまは「忘れてはならない4つの日」として昭和20年6月23日の「沖縄慰霊の日」を挙げている。悲惨な沖縄戦が終結した日だ。だから、こういう言い方もしていきたい。

『八月や六日九日(むいかここのか)十五日 そして六月二十三日』

NHK・Eテレの若い世代に戦争を伝える企画に違和感

BLOGOS編集部

8月はNHKばかり見てるよ。NHKスペシャル、ETV特集、BSスペシャル、戦争に関する特集を様々な切り口で真摯に番組にしてるからね。明治以降の貴重な映像をアメリカやイギリスやフランスやヨーロッパ各地から発掘してきた特集があったんだけど、これが素晴らしくて見入ったよ。

俺、先日Eテレの番組から声がかかって戦争の話をしたんだ。「沼にハマってきいてみた」(8月9日放送分)っていう子ども向けの番組なんだけど、俺と海老名香葉子さんが取材されてね。若い子が俺に戦争に関する体験を質問するんだ、「戦時中は何を食べてましたか」とか「楽しいことはありましたか」とかさ。

でね、その放送を見たらメインの企画があって、中高生が祖父母たちに戦争体験を聞いて、それを元にゲームを作ってゲームを通して戦争の話を若い世代に伝えていこうっていうものだったんだ。出来上がったゲームっていうのが、現代の高校生が戦時中にタイムスリップして、そこで色んな人に出会って、玄米をついて白米にしたりとか、千人針だとか、当時の暮らしや風習を知るというものだった。

戦争という取っ付きにくいものをいかに若い世代に伝えるか、そのための入り口としてゲームを用いたんだろうね。その工夫はわからなくないけど違和感もあったな。なんだろう、ゲームのちょっとコミカルな画面は取っ付きやすいけど、伝えるべき本質みたいなものが、ものすごく軽くなっているようだったんだ。うーん、中高生が相手なら、もう少し深堀りしたことが出来ると思ったな。

NHKが戦争を扱った一般の番組は、見応えある重厚な番組を幾つも制作しているのに比べて、子ども向けの番組はクオリティの格差を感じたな。8月のこの時期に戦争を扱おう、中高生にいかにして戦争を伝えようか、ならばゲームを通して…、っていうところで、かなり色んなものが削ぎ落されていたように見えたんだ。だから次の時は番組の中でまた知恵を出し合って、若い世代に戦争を伝えることにもう一歩踏み込んで向き合ってほしいな。

若い世代は年寄り世代から戦争の話を聞き出してほしい

BLOGOS編集部

俺は、若い世代に戦争のことをどんどん聞いてほしいと思ってる。正面からドーンとぶつかってきてほしいと思ってる。戦争なんてそもそも厄介なんだから、片や言いづらい、片や聞きづらい、それが当たり前だよ。

だけど戦争も悲惨ばかりで24時間過ごしているわけじゃない。物が無いとか服が無いとか食いもんが無いとか、灯火管制だとか、空襲だとか、大変な苦労もあったけど、それを補おうとする家族やご近所の工夫があったり、喜びや絆もあった。

戦争を知る年寄り世代はさ、当時の話をあまり喋りたがらない人もいるだろうけど、聞いてくれれば語り残したい人も多いと思う。俺はいつでも伝えたいと思ってる。若い子が聞いてくれるのは俺はウエルカムだよ。

その時にね、聞きやすいような当たり障りのないことだけでなく、話を深く掘れるように、根気を持って取り組んでくれたらって願うよ。聞き方ひとつで、出てくるエピソード、思い出す記憶って、ホント違ってくるからね。俺を深く掘ってくれって思う。

それにしても俺も85歳、戦争が終わって76年、我ながらよく生きてきたよ。戦争の語り部は誰もが年寄りだから、年々その数は減っていくばかり。貴重品というか骨董品というか絶滅危惧種だ。毒蝮でありながら、オオサンショウウオとか、イリオモテヤマネコみたいなもんだな(笑)。

(取材構成:松田健次)

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