佐渡金山巡る韓国の主張は間違い – PRESIDENT Online

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政府が、2月1日にユネスコ(国連教育科学文化機関)に推薦した「佐渡島の金山」(新潟県佐渡市)の世界文化遺産登録を巡り、日韓の間で論争が続いている。歴史評論家の香原斗志さんは「本来、文化遺産の価値は、強制労働など『過去の歴史問題』から切り離して考えるべきだ。両者ともに的外れな議論をしている」という――。

日本と韓国の国旗※写真はイメージです – 写真=iStock.com/Oleksii Liskonih

佐渡金山の「世界遺産」推薦をめぐる議論への違和感

佐渡金山の世界文化遺産への推薦に、韓国政府が強く意義を申し立てている。このため、日本の保守派は韓国との「歴史戦」を始めるという。ところが、歴史

戦で争われるのは、推薦するに値する文化遺産かどうかではなく、そこで差別や強制があったかどうかだという。

ここまでも文化遺産としての価値をめぐる議論はまるで交わされていない。私は違和感を禁じえないが、その正体を伝えるためにも、最初に経緯を整理しておきたい。

推薦後、すかさず韓国外務省からの撤回要求

事の発端は昨年12月28日、文部科学大臣および文化庁長官の諮問に応じて文化関係の案件を審議する文化審議会が、遺跡としての佐渡金山を世界文化遺産への推薦候補に選んだことだった。

これに対し、韓国外務省がすかさず「非常に嘆かわしく、直に撤回を求める」という報道官の論評を発表。「第二次世界大戦中、朝鮮半島から連行された労働者が佐渡金山で強制労働させられていた」というのが、撤回を求める理由だった。

韓国にそういわれれば、日本の保守派は黙っていない。今年1月18日、自民党内の保守系勉強会で、安倍晋三元総理が顧問を務める保守団結の会は、速やかにユネスコへ推薦することなどを決議。

20日には安倍元総理が派閥の総会で「論戦を避けるかたちで登録を申請しないのは間違っている」と発言し、24日の衆院予算委員会では高市早苗政調会長が「国家の名誉に関わる。必ず本年度に推薦すべきだ」と、政府に強く求めた。

こうして文化遺産の話は、いつの間にか国家の名誉の話になってしまった。

日韓の歴史認識の問題にすり替わっている

結局、岸田文雄総理は1月28日、推薦する方針を表明し、2月1日に閣議了解されたが、それが保守派に背中を押されての決定のように見えたから、なおさら韓国側の反発は強またようだ。

2月12日、韓国の鄭義容外相が林芳正外相に「強い遺憾と抗議の意」を示し、14日には韓国国会が、日本に推薦撤回を求める決議を採択した。

むろん韓国メディアも一斉に反発した。

例えば京郷新聞は社説で「岸田総理が安倍など強硬派の攻勢に押され、再び過去の歴史問題から退行するとは残念だ。総理が変わっても韓日関係の改善を期待できない現実に失望する」と訴え、佐渡金山の世界遺産登録を阻止するよう韓国政府に呼びかけた。

「歴史戦」という表現

日本にも韓国側の訴えを補完する主張がある。

例えば、社民党の機関紙「社会新報」は、安倍元総理ら自民党タカ派の狙いは「植民地にした朝鮮半島からの強制労働動員の歴史的事実を抹消することにある」と断定。

日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」も「『歴史戦』と称し、侵略戦争や植民地支配、それに伴う人権侵害を否定する立場から歴史を改ざんし、それを認めない相手を攻撃することは根本的に間違っています」と書いた。

どうやら、佐渡金山の世界文化遺産への推薦問題は、文化遺産としての価値についての議論が置き去りにされたまま、日韓の、そして左右両翼の歴史認識に関する問題にすり替わってしまっている。

だが、もともと佐渡金山の世界遺産登録をめざす動きは、歴史認識などとはまったく無縁だったのである。

暫定リスト入りしたのは民主党政権時代

佐渡金山が世界文化遺産の候補地に名乗りを上げたのは、石見銀山が世界遺産に登録された2007年のこと。

文化庁の公募に対して新潟県と佐渡市が立候補し、2010年6月にユネスコの暫定リスト入りが決定。同年10月に「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」として、暫定リストに掲載された。

2010年といえば民主党政権の時代。当時の菅直人総理は、歴史の事実を直視すること、植民地支配への反省とお詫びをしきりに訴えていた。そんな政権下において世界遺産に推薦する方針が決まった佐渡金山である。

本来はそこに、いま争われているような「歴史戦」の要素、すなわち歴史認識の問題など、存在していなかったのだ。

アピールしたのは「江戸時代」の金の生産技術

ちなみに、新潟県と佐渡市が推薦書でアピールしたのは、江戸時代における金の生産技術だった。つまり、鎖国政策が続いて海外との交流がほぼ絶たれた時代、海外では機会による掘削が中心になるなか、世界最大級の金山を中世から続く手掘りの技術で金を採掘してきたこと。それが佐渡金山独自の価値だ、という主張である。

1601年に開山され、その2年後に徳川幕府の天領になった佐渡金山は、独自の手掘りによって幕府の財政を支え続けた。

そのシンボルは「道遊の割戸」である。標高252メートルの山が斧を振り下ろしたかのように、てっぺんから割れている画像を見たことがあるだろう。金鉱石が露出していた山頂から手掘りで掘削した結果、山があのような姿になったのだ。

道遊の割戸佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」。露天掘りの跡。(写真=Muramasa/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)

江戸初期の最盛期には、金の年間産出量が400キロを超えていたといい、中心となる相川金銀山では、掘り出した鉱石から純度の高い金を取り出し、小判まで製造していた。

そうした歴史的価値は、果たして世界遺産登録の評価基準となる「顕著な普遍的価値」と評価するに値するかどうか。問題はその点につきるはずだろう。

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