恐れていたことが起こった。
オリンピック開会式。あまりに酷いその演出に「これでは閉会式はいったい、どうなるんだろう」と戦々恐々としていたのだが、残念ながらこの懸念は的中してしまった。しかも、開会式を凌ぐ悲惨な展開に。
「田舎の披露宴」状態
閉会式を見ていて二つのことが思い浮かんだ。
一つは田舎の比較的大きな披露宴。宴の上座では新郎新婦の脇で次から次へと演し物が繰り広げられる。定型のスピーチや演舞であったり、歌の披露であったり。ところがこれを列席者のほとんどは気にかけていない。各テーブルはそれぞれが好き勝手に盛り上がっている。つまり統一感がないバラバラな状態。
閉会式はまさにこの状態だった。会場に参列したアスリート達のほとんどは、やはり繰り広げられているパフォーマンスに関心がない。中には寝っ転がっていたり、他の選手と撮影したりする者も。もし、前述の披露宴の様子をテレビ中継で見させられたら、先ずわれわれは見ないだろう。これがテレビ視聴者のメンタルと重ねってくる。実際、僕も途中で眠くなってしまった。
演出は「やおい」と同じ
もう一つは「やおい」という言葉だ。これはアニメや漫画のキャラクターを拝借し二次創作する作品や、二次創作を実践する人々を指す。言葉の語源は「ヤマなし、オチなし、イミなし」。とりあげられるのはボーイズラブで、ひたすら有名どころのキャラクターの濡れ場が続く。それだけなのでヤマがなく、オチもなく、意味もない。
閉会式はまさにこの「やおい」の状態だった(やおい系を擁護するためにお断りしておくが、やおい系の人間の場合、これが確信犯的に実践されているという点で一つの美学を構成している。一方、閉会式の場合は文字通りの「やおい」だった。結果としてそうなっただけ。ベタに何の意味もなかったのだ)。
何をやっているのかサッパリわからないのだ。あるいは、あったとしても、こちらには届いていない。そこで「やおい」をキーワードに閉会式のダメさ加減をメディア論的に考えてみたい。
イベントには「テーマ」と「ストーリー」が必要
こうした歴史的イベントを考案する場合、当たり前の話だが、いくつかのルールが存在する。
テーマとストーリーという構成、これに伝統の尊重と継承、未来へ提言といったところを付随させる。オリンピックの場合、さらに国家を横断した連帯や調和といった理念が加味される。ところが今回の閉会式の場合、これらの基本的要素が曖昧、あるいは上手くかみ合っていない、さらに言えばバラバラかつ箇条書き的に並べられているだけなのだ。
先ずテーマ。これはいったいなんだったんだろう?垣間見えるのはノスタルジーだ。57年前に開催された東京オリンピックがそれで、だから選手入場では64年開会式のオリンピックマーチ(作:古関裕而)が、また掲示板には、同様に64年に前国立競技場の閉会式の際、映し出されたのと同じフォント、ドットで「ARIGATO」が出現した。
ただし、これだけでは中途半端。そもそも、この二つでさえも、アナウンサーが指摘しなければわからないトリビアルな記号でしかない。そして、それ以外のパフォーマンスについてはノスタルジーとはあまり関連がない。つまり、テーマが統一されていない。ガラクタ箱みたいになっているのだ。当然、パフォーマーも役所が孤立しているゆえ、ガラクタの一つに見える。
次にストーリー。前半は街を歩く女性やパフォーマー、後半では大竹しのぶと子どもたちが登場。でも、これって全体とどう関係があるんだろうか?開会式のなだき武や真矢みき同様、大竹しのぶが出演することに何の意味があるのか?これまたお断りしておくがこうしたパフォーマーやタレントが登場すること自体が問題なのではない。
全体のテーマ、ストーリーの中でどう位置づけられているのかが問題なのだ。だから問題は出演者ではなく演出する側にある。
そして、ストーリーには当たり前の話だが了解可能となる一連の流れ=スキーマと、ヤマとなるシーンが必要だ。さらに、これらはオリンピックというイデオロギーとリンクしていなければならない。それは開催都市・国家の伝統、そしてオリンピックの伝統への尊重と、未来に向けたこの伝統の継承と発展。
それが結果として世界を一つに結びつける連帯・調和へと繋がっていくというふうに。加えて、このストーリーは開催国の国民のみならず、世界の人々へ向けても発信されていなければならない。この手の演出が、今回の閉会式(開会式もそうだが)ではほとんど功を奏していないのだ(というか、はじめからなかったのかも?)。
ロサンゼルスオリンピックとロンドンオリンピック閉会式の統一感
これは他の大会の閉会式と比較してみればよくわかる。1984年のロサンゼルスオリンピックでは開会式にロケットマン(グラウンドに空中歩行器で空から人間が降りてきた)が、閉会式には上空にUFOが、ゲートの上にはエイリアンが登場した(エイリアンの登場は「楽しそうだから寄ってみた」という想定)。
これはアメリカのテクノロジー、エンターテインメントという文化がオリンピックの精神=インターナショナルと見事に調和した瞬間だった。2012年のロンドンオリンピックも同様で、ヤマ=クライマックスにポールマッカートニーがビートルズソングを熱唱。最後はヘイジュードで会場、スタジアム内、そして視聴者が一体となって唱和し、ビートルズというイギリスの伝統、世界とその未来を結びつけたのだった。
そしてこの時、アスリート達は一体となっていた。間違ってもグラウンドで寝っ転がったり、スマホをいじったりしている者などいなかったのだ。
今回のオリンピックを修正するとすれば
もし、これらの要素を過不足なく詰め込んで、しかも統一性を持たせようとするならば、たとえば次のような展開になるだろう。①まず伝統の継承。これまでのオリンピック、とりわけ1964年の東京オリンピックを回顧する(これは内に向けてはノスタルジーでもある)、②これを踏まえて今回のオリンピックを再定義する、③未来に向けて(そしてより世界が団結、調和するという文脈で)オリンピックの未来、さらには地球の未来を展望する(ここにコロナとの対決図式を入れてもいい)。
こんなストーリー展開=スキーマが必要だ。今回の閉会式にこれがないとは言わない。たとえば終盤、大竹しのぶと子どもの登場のところで流されたのは宮澤賢治の「星めぐりの歌」、そしてドビッシーの「月の光」(1972年に冨田勲がシンセサイザーでレコーディングしたもの)だ。
地球をはるかにに超えた星に思いを馳せるところに未来、そして大きな宇宙を感じさせようとしたのだろう。ただし、前後関係がよくわからないので何のことやらサッパリわからない。
ようするに、前述したように問題は登場人物(タレントやパフォーマー)やそれぞれの演し物それ自体ではなく、これをどう繋いでオリンピック的な世界観とすりあわせ、さらにそこに新しい何かを付け加えるかなのだが、これが残念ながら全くなかった。だからやおい、そしてガラクタ箱になった。