累計売上8700億円 伝説の音楽P – 渡邉裕二

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渡邉裕二

2020年――日本のレコード産業は110年を迎えた。

その歴史の中から生まれたヒット曲、名曲は数知れず。歌によって元気づけられ、慰められ、勇気づけられた人は多い。

そんな日本のレコード産業を語るときに必ず登場する人物がいた。〝伝説の音楽プロデューサー〟として知られる酒井政利氏である。

その酒井氏が7月16日に亡くなった。享年85歳。

5月末に都内の病院で検査入院したようだが、アレルギー反応が出たようで「そのまま入院していたようだ」(音楽関係者)。いずれにしても「私生活を見せない人だったので状況が掴めない」というのが現時点では業界内の反応だ。

音楽プロデューサーになる人は、一般的には作詞者や作曲者、アレンジャー、あるいはアーティスト系などがポピュラーなのだが、酒井氏の場合はレコード会社(元ソニー・ミュージックエンタテインメント取締役)の所属だった。そんな酒井氏のような存在は〝ハウス・プロデューサー〟と呼ばれていた。

2005年には「文化庁長官表彰」を受賞。2020年にはプロデューサー生活60年を迎え、「文化功労者」として顕彰された。

どんな世界でも、現役を継続するのは大変なことだが、60年も第一線で活躍し続けることは並大抵のことではない。

「日本のレコード産業が100数年。その半分以上に携わってくることが出来た。レコード産業の一翼を担っていくことが出来たことは自分にとっても大きな誇り」

感慨深げに振り返っていた酒井氏の表情が浮かぶ。

ちなみに、音楽プロデュース生活で手掛けてきたアーティストは300組を超え、プロデュースした曲の総売上げは累計で約8700億円とされる。かつてJR総武中央線の市ヶ谷駅から見えたソニー・ミュージックエンタテインメントの旧本社ビル(業界内では「黒ビル」と呼ばれていた)。このビルは「酒井さんのヒット曲の売上げで建てられた」との逸話があったほどだ。

伝説のプロデューサー酒井政利氏の〝武勇伝〟

酒井氏は、巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄氏と立教大学で同期だった。

大学を卒業後、一旦は映画会社の「松竹」に入社したが、1961年10月に日本コロムビアに移り「音楽制作人生」をスタートさせた。

私と酒井氏の付き合いは三十数年になるが、もはや、この機会しかないので今回は私の知る限り、氏のプロデューサーとしての〝武勇伝〟を記しておきたいと思う。

酒井氏が最初に担当したのは大手プロダクション「ホリプロ」の社長も務めたことがある歌手の守屋浩さん(2020年9月19日死去)だった。

「駆け出しの頃は、ベテランの歌手の後半、あるいは新人歌手を任されるんです。ですから楽曲を含め考えることも多かった」

そこで思い描いたのが映画やテレビドラマの主題歌だった。今でいう〝メディアミックス〟である。

「自分の作った音楽をメディアに結びつけられないか」

酒井氏は考えに考えた。そんな時に出会ったのが一冊の書籍だった。

「愛と死をみつめて」

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1963年12月――「東京オリンピック」開催の10ヶ月前に出版された。酒井氏は、たまたま同書を手に取り読んだ。

顔を悪性腫瘍(軟骨肉腫)に冒され、21歳の若さでこの世を去った大島みち子(ミコ)と河野實(マコ)の3年にも及ぶ手紙のやりとりを書籍にしたものだった。

「この本を音楽にしたら感動的な作品になる。今、大衆の求めているのはこれだ!」

若い男女の往復書簡に新鮮な魅力を感じた。

酒井氏は同書のレコード化を社内で提案すると同時に出版元の大和書房に赴き「音楽制作独占契約」を結んだ。

「社内では、まだ私は新人だったので、どんなに我を通そうと気にする人もいませんでした」

年が明けて制作に入ったが、酒井氏にはこだわりがあった。

「原作のイメージを引き出すため、曲はベテラン作家ではなく主人公と同年代の若手の新人作詞家と作曲家を起用したい」と思った。同時に歌唱も18歳の新人歌手・青山和子を抜擢した。

「青山は、コロムビアの全国歌謡コンクールで優勝した歌手でした。とにかく地味な子で芸能人らしくなかった。でも、そこに瑞々しさを感じた。この曲はアマチュアらしさの残った歌手という要素が重要だったのです」

26歳になったばかりの酒井氏にとって初めての全面プロデュース作品となった。

書籍は社会現象になるほどの評判となり1964年度の年間ベストセラーとなった。

レコードは同年7月に発売された。当時、TBSのプロデューサーだった石井ふく子氏は橋田壽賀子さん(2021年4月4日死去)の脚本でテレビドラマ化、さらに吉永小百合と浜田光夫主演で映画化もされ一世を風靡。その後、ニッポン放送もラジオドラマ化した。

ところが、この話にはちょっとしたエピソードがあった。

「あの書籍はテレビドラマ化や映画化されていますが、実は青山の歌は使用されていません。あの時、石井さんから電話を頂いて、ドラマで使いたいとのお話も頂いたのですが、そのドラマの放送が東芝日曜劇場枠(現在の日曜9時)だったんです。ところが、レコードは日本コロムビア。当時、東芝もレコード会社を持っていたし、競合するメーカーの作品は使えないということになりました」

それだけではない。映画にも裏話があった。

「主題歌は〈愛と死のテーマ〉というタイトルで吉永小百合さんが歌っていました。彼女はビクターレコードの所属だったので当然、映画公開に合わせてレコード発売を予定していたのです。ところが、この音楽制作権は日本コロムビアが押さえていましたから、私はビクターに行って説明しました。その結果、吉永さんの映画主題歌の発売は幻になってしまいました」

タイミングや事情も味方して酒井氏の描いていたメディアミックス戦略は見事に成功した。テレビドラマや映画を観た人は、唯一レコードとなっていた青山の歌を聴いて涙し、結果、その年の「第6回日本レコード大賞」を獲得、さらに青山は「第15回NHK紅白歌合戦」にも初出場した。もちろん酒井氏の名も業界中に知れ渡った。

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