海外であり得ない議員の辞職勧告 – ヒロ

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今、二人の議員の辞職勧告の行方が気になっています。一人は都議の木下富美子氏、もう一人は大分県臼杵市の若林純一議員です。議員辞職勧告になった理由はそれぞれ全く違うものでありますが、お二人とも議会に対して「むきになっている」のがアリアリとわかります。

辞めない議員のもう一人が秋元司衆議院議員で9月には実刑判決が出たものの本人は控訴をし、11月の衆議院選挙には出馬すると述べています。事実、氏のツィッターには街頭でこんな活動をしました、という内容が日々つづられています。彼の場合にはあとひと月強で選挙という節目を迎えるため、有権者がどういう判断をするか次第ですが、一般的に考えれば落選すると思われ、ツッパリももう限界にあると思われます。

議員とは有権者の代表であるとともに議会をリスペクトしなくてはいけない義務があります。木下氏については当選後、一度も議会に来ておらず、9月28日には2度目の議員辞職勧告が行われたにもかかわらず、無視。都議会はついに長期欠席する議員の報酬減額の改正案を審議することになりました。多分、改正案は通過するのでしょう。無駄な税金の垂れ流しをするのを止める効果はありますが、木下氏が辞める理由は余計無くなると思います。

つまり、完全開き直りで「私は議員、報酬はもらっていないので無償のボランティア。議員を辞める理由が特段ないので議会には出ないけれど議員バッジは外しません」となる気がします。

一方、大分県臼杵市の若林氏の場合は事情が全く異なります。鼻だしマスクを再三議長に注意され退場を命じられ、その後、議員辞職勧告が出ました。若林氏の場合、コロナに伴うマスク反対派で議会でそれを強要されるのはおかしいという自身の考えを議会に持ち込んだことがトラブルの原因です。

私は海外に住んでいて比較的大所高所の話題が多い中でなぜ、こんなちっぽけな話題を取り上げたのか、といえばこの2人の行為に日本人の特性が凝縮されているように思えるからなのです。

仮に海外で同じ問題がおきたらどうなるか、といえば普通は常識的にこんな騒動になる前にさっさと辞めさせられているはずです。好む好まざるにかかわらず、それが当然の措置です。ところが日本の場合は議員の話に限らず、比較的強制力がない社会です。コロナ対策一つとってもそうですが、憲法に定められた権利を盾に最終的には個人の自由であるという考え方があります。

なぜこういう発想になるか、これは神道の本質に由来するものではないかと思います。自然界の調和が発想の起点で自分を取り巻く周辺は常に平等であり、力関係はない、よって何人にも指図されるものではない、というのが非常にかいつまんだ神道の本質です。これが日本国憲法と相まって「最後は自分の判断でしょ」になるわけです。

この発想には権利の主張だけで義務の部分が抜けています。なぜないかといえば神道に教義がないのでルールが設定されていないという弱点があるのです。それゆえ、例えば日本の契約書でも「双方の信義に基づいて…」という訳のわからない一文が契約書の一番最後に入ったりするわけです。

欧米はこうなればこう、ああなればこう、とったフローチャート的発想になっており、必ず、そこに行きつくまでの飴と鞭が示されています。日本にはそれが欠如しているのが如実にお判りいただけたと思います。

議員は3つのことを肝に銘じるべきです。まず有権者から選ばれたこと、それを議論する議会は個人がこねくり回した言い訳を排除し高貴で神聖的であるべきです。(西欧ではないので神聖「的」とします。)3点目に議員の資質は管理されるべきであり有権者の代表たる姿から外れた場合には強制力を持って処置することを許すべきでしょう。議員の好き勝手にさせることは有権者の権利を冒涜するものではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。

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