専門知軽視が呼ぶメディアの堕落 – 石戸 諭

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インターネット発の言論の影響力は大いに高まっている。だが、それに伴って発信する側の「力の格差」は広がっている。明らかな虚偽は論外としても、そもそも物事を表面的にしか知ろうとしない記事、極論を唱えて開き直る発信も増えてきたように思える。果たしてそれでいいのだろうか。今こそ、メディア関係者や発信する側にもより健全化が求められる時代になっている。

ウクライナ侵攻で顕在化した「専門家」への期待

ロシアによるウクライナ侵攻が始まってから、目立つようになったメディア批判に「素人が語るな」「もっと専門家を呼べ」というものがある。「専門家」の声に耳を傾けるべきという主張は一義的には正しい。こうした非常事態においては、専門家の見解をよりクローズアップしたものが見たいという声も大いに理解できるものだ。しかし、少しだけ立ち止まって考えてみたい。

専門家とは誰を指すのだろうか。ウクライナ情勢を見ればわかるように、背景を読み解くには直接的に関係している国際政治、軍事、地理的影響の考察といった広い意味での社会科学的な知だけでなく、歴史学、ロシア現代思想、あるいはロシアにおける保守主義の立ち位置といった人文的な知も求められる。

ロシアによるウクライナ侵攻では、複雑な背景を理解する専門家が求められた AP

軍事にしても、個別の武器や航空機、戦車といった個別具体的な武器についてなのか、それとももっと広く軍事戦略、あるいは地政学的な知なのかによって適切な専門家は異なる。さらに、諜報・インテリジェンスにも専門的な領域は広がる。それもロシア側だけでなくウクライナ側から見たそれらの知も必要だ。専門が細分化された現代においてすべてに精通している人などおよそいないのである。

事象やケースによって、語れる専門家は変わる。

極論に頼らず、多様な「専門」知をどう伝えるか

新型コロナ禍も同様だ。「自分は現場を知っている。現場を見ろ」という、専門家を名乗る医師がいたとしよう。だが、その医師が知っているのは、自分の病院の範疇に過ぎない。重症化した患者を診ているICUの集中治療専門医には専門医の現場が、他方、地域には地域で大学病院ほど恵まれた環境ではない中で「最後の砦」として奮闘する医療機関の現場がある。

中等症を主として受け入れた病院、訪問診療や保健所も同様だ。それぞれにそれぞれの現場が存在している。疫学における数理モデルの進展、モデルに使われるパラメーターの多様性、あるいは医療だけでなく感染症対策がもたらす社会へのデメリットも含めて考えるとするならば、現場はさらに広がっていく。それらをトータルで語れる専門家もおよそいない。

コロナ禍では様々な立場から専門家の知見が発信された AP

現場や専門と一言で言っても、それ自体が多種多様なのだ。私のような専門を持たないライターに必要な能力の一つに、こうした現場や専門の多様性を踏まえて、問いを立てることがある。

半可通にならず、物事の本質を見極め、適切な問いを適切な専門家に聞き、より社会に広く伝わる言葉で描き出す。アマチュアの好奇心で聞き、専門的な知見を一つの記事に落とし込む。そこで必要なのは余計なことを聞かない、語らせないという分別だ。

その対極にあるのが、多くの人がぱっと飛びつくような極論を打ち出し、賛否両論を巻き起こしたのだからいいだろうと開き直る発信だ。社会が複雑な以上、単純な結論は存在しないにもかかわらず、こうした発信は後を絶たない。

「感情の刺激」合戦ではなく、社会の見方を変えるニュースを

ニュースを発信する側自らが、多様性を一色に塗りつぶしてしまった時点で、堕落が始まる。一年前に『ニュースの未来』(光文社新書)という本を出版した時、私は良いニュースを構成する五大要素を謎、驚き、批評、個性、思考――という言葉で整理した。その中で一番大きな要素が最初に持ってきた「謎」だ。良いニュースはまず社会の「謎」を解くということから始まる。優れたミステリー小説と同じように、冒頭に大きな謎が提示される。そして、謎解きの過程そのものもスリリングであり、その謎を提示するために必要なのは問いを立てる力だと言える。

ところが、今のメディアの世界、とりわけインターネットニュースの世界は、過剰すぎる「感情」の刺激を持ちこむ。的確に感情にアプローチし、人々がどのようにクリックするのか。どのような中身でシェアするのかを追求してきた。

それがインターネットに留まっている間はまだ良かったのかもしれない。だが最近では、テレビや新聞にもインターネットメディア的な「感情の刺激」合戦がやってきたように見える。テレビでの著名人の発言が、極論も含めすぐにインターネットで「ニュース」になってしまった世界の帰結だろう。

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これは新しいこと、良いニュースの追求というより、どれだけページビューを稼げるか、どれだけSNSでシェアされるか競争の延長に過ぎない。見出しで感情を刺激されてシェアしたけれど、次の日にはシェアしたことすら忘れているなんてことはないだろうか。

あるいは大して中身も読まずにシェアしていることはないだろうか。見出し先行で「おもしろそう」と思って読んでみたら、さほど良くもなくがっかりという経験はないだろうか。

良いニュースは社会の見方を変えていく。アマチュアの分別を持って、ニュースの世界をもっと豊かにしなければ、メディアは日本にもやってくる危機にはまったく役に立たない、くだらない情報の粗製濫造に堕していく。自戒を込めて思う。今こそ、メディアのアップデートを。鍵を握っているのは、やはり現場にいる発信者なのだから。

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