立民のズレた公約 誤ったSNS戦略 – 御田寺圭

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「政権取ってこれをやる」の衝撃

ツイッターなどでは絶大な人気を博し、政権奪取間違いなしと目されている最大野党・立憲民主党が、自身のツイッターアカウントで「政権発足後ただちに決定する事項」を発表し、大きな話題となった。

「政治的ただしさ」がこれ以上ないほど前面から伝わってくる7つの公約により、インターネットは空前絶後の感動に包まれた。賞賛と共感の渦に包まれ「政権交代まったなし!」のシュプレヒコールがあがり、日本社会を凋落させてきた自民党政治はいよいよ終焉の時を迎えるのであった。

……ということにはならないだろう。残念だが、これでは立憲民主党が政権奪取を達成するどころか、次の選挙でさらに支持を落としてしまう可能性すらある。

「政権をとったら『政権批判』します」では響かない

立憲民主党から発表されたこれらの公約を見たほとんどの人は、「うむうむ!よくぞ言った!!」ではなく「お、おう……」となってしまうこと請け合いなのである。

1~3はあえて立憲民主党でなくてもどの政党でも実際にすぐやるであろうことであり「立憲民主党だからこそ、すぐにやることだ」と自信満々で掲げる意味がよくわからない。

そして4~7についてだ。これぞ立憲民主党といった文言が踊っている。2021年も終盤になろうというところで、いまだにモリカケサクラが「国民的大問題」だと認識している事実に、なぜ立憲民主党がいつまで経っても政権を取れないのか、もっといえば支持率がひと桁台に張り付いたまま動かないのか、その理由が凝縮されてしまっているだろう。

政権とって真っ先にやることが「政権批判」という政党は、とくに政権を取る必要はない。いまでも十分にやれるからだ。ワイドショーや週刊誌とタッグを組んで好きなようにやればよい。

BLOGOS編集部

SNSを通じて「世間」を見ようとしても、実際にそれは世間ではない。残念ながら、いかに立憲民主党がいくら力強く問題提起をしようが、大衆社会では「モリカケサクラ」などとうの昔に忘れ去られた出来事であり、「赤木ファイル」なるワードもピンとこないし、「スリランカ人ウィシュマさん」などその名前を聞いたことすらもない人が大勢いる。ましてや「日本学術会議任命拒否」の一件に至っては、世論調査※では「問題だと思わない」と回答した国民の方が多かったのだ。

これらをいまだに最優先で究明すべき喫緊の大問題であるかのように叫んでいるのは、ツイッターやはてなブックマークで自民党への怨嗟をまき散らしながら立憲民主党を熱烈に支持するごく少数のインテリ層くらいである。かれらの声がいかに大きいからと言って、それは必ずしも「世間の声をあまねく反映・代表している」とは限らない。それはあくまで、偏って表示されがちな「SNS世論」のひとつでしかないのである。

数日後に発表された「政権取ってこれをやる」の公約第二弾もまったく同じことだ。国民の大多数にとって「関心の外側」にあるような、SNSの一部界隈でだけホットな話題のスケール感を見誤っている。こんなものを「公約」にされたところで、一般的な国民はもちろん、これまで立憲民主党を支持してきた人すら唖然としてしまうだろう。もっとも、支持者を先鋭化させて「厳選」したいという意図があるのなら話は別だが。

SNSで精力的に活動するリベラル系のインテリ層(およびリベラル系インフルエンサー)の問題意識は、一般大衆のそれとは著しく遊離しており、政治的にも社会的にも偏向している。かれらの声に深入りすればするほど、大衆感覚との「ズレ」がひどくなってしまう。

立憲民主党がひたすら先鋭化している傍らで、「小泉純一郎的な新自由主義の見直し」「格差是正と所得倍増」「民間企業の研究開発の税制支援」など、本来ならリベラル政党が真っ先に強調して宣言するべきことを、自民党の次期総裁候補である岸田氏が言っているという、もはや冗談にもならない状況が生じている。党内で疑似的な政権交代を行うことで国民の支持をつなぎとめる自民党の強かさは、かれらが長年にわたって支配的な立場を築いてきた要因のひとつだ。

ただし、生活者の現実に直撃しかねないような「インボイス制度」についても枝野議員はしっかり提言している。だが、これこそを「すぐやる公約」のいの一番に持ってきてアピールするわけでもなく、「専門的なテーマ」「地味なテーマ」などと控えめに言ってしまうこの《勘の鈍さ》にはため息が出てしまう。

自営業者もそれなりにいて、また企業勤めの人たちの間でも副業やマイクロ起業が全社会的に盛んになっている時代において、国民が本当にやってほしいことはそういうことなのである。モリカケサクラといったワイドショーやSNSをにぎやかにするだけの平成の残滓はいい加減に卒業して、「いま」の国民の声に向き合い政治に取り組んでほしい。

自民党の異様な強さの理由

一方で自民党はインターネットやSNSではめっぽうウケが悪い。

たとえばツイッターやはてなブックマークなどを観察していると、それこそ自民党の支持者などほとんど存在しておらず(わずかに観測されていたとしても大勢からバカにされているのが関の山であり)、国民は自民党政権に愛想をつかして立憲民主党の支持層になり、いよいよ政権崩壊の秒読み段階であるかのようにも見える。

――しかしながら、いざ蓋を開けてみれば、いつだって選挙で勝ち残るのは自民党である。

なぜ自民党はこうも強いのか?それはかれらが、インターネットを見ながら政治しているわけではないからである。

写真AC

かれらが見ているのはインターネットやSNSではなく、そのような世界には姿を見せず、声も出さないような一般の名もなき生活者たちである。政治的な知識もなければ、インターネット上の影響力もない、日々の生活に追われながら生きる人びとに対して「いかに自分たちの声を聞いてもらえるか」ばかりを考えている。

この社会の大半を占める生活者たちにとっての喫緊の課題は、文字どおり生活である。自分の今日明日の暮らしがどうなっていくのか?税金や社会保障はどうなるのか?老後の暮らしは?学校を卒業後の就職は?――それらこそがもっとも優先度の高い政治的関心なのだ。

モリカケサクラがどうのこうの、外国人難民が入管で受けたとされる非道な人権侵害がどうのこうの、ジェンダーギャップがどうのこうの、夫婦別姓がどうのこうのなど、これらに強い関心を寄せられるのは、目先の生活に困っておらず、時間的にも経済的にも余裕のある(からこそSNSに四六時中入り浸って政治闘争を繰り広げられる)層だけだ。

実のところ、自民党と立憲民主党はそれぞれ自分たちの「声」それ自体を届ける能力にはそれほど差がないかもしれない。しかし届ける相手の絶対数が決定的に違う。ポリティカル・コレクトネス、SDGs、マイノリティの権利といったテーマ性が「響く」人はもちろんいるが、しかし大部分の生活者はそれに該当しない。

自民党はたしかに「人権感覚のアップデート」の観点では立憲民主党の足元にも及ばないだろう。しかしかれらの「アップデートの遅れたメッセージ」は、立憲民主党よりも多くの人に届く。「声の届く人数」の差が、投票箱に入れられる票数の差となり、議席数の差となる。ただそれだけだ。

立憲民主党はたしかに先鋭的な支持者層のハートをがっちり掴むことはできているので、おそらくこれ以上に支持者が低迷することはない。「政権取ったらこれをやる」の一連の公約を見てもなお立憲民主党を支持しているのは、選りすぐりの岩盤支持層である。今後も大躍進はしないものの急激な低迷もしない。良くも悪くも安泰ではある。

致命的な「想像力の欠如」

立憲民主党は、一般大衆≒生活者が、いまなにを考えながら生きているのかについて、致命的なほどに想像できなくなってしまっている。

「政治的ただしさ」「人権感覚のアップデート」「反自民(政権批判)」これらにこだわるあまり、市民社会にひろく浸透する時代精神を読む力が損なわれてしまったからだ。

ただし強調しておきたいが、これはかれらが無能だったからとか、大局的な政治センスがなかったからではない。かれらが「SNS」を駆使した次世代の選挙運動を率先して取り入れたことの「影の側面(副作用)」だっただろう。

立憲民主党は発足当初から「~大作戦」と称して街頭演説をハッシュタグ付きで拡散し多くの注目を集めていたし、またその模様をツイッターやYouTubeなどを用いてネット上で中継していたりもした。公式アカウントがSNS上で一般市民と議論を行うなどその距離感の近さも明らかに特徴的だった。これらの施策はかれらのネット社会における政治的注目度を飛躍的に高めたし、一時期には若者たちの政治的関心を高めることにも大きく貢献したことは間違いないだろう。

しかし「SNS」のコミットメントを深めれば深めるほど、かれらは政治的バランスを欠いていった。現実の市民社会ではなくて「SNSの市民社会」を見て、そこから世間の声を拾い集めようとしていったからだ。SNSを利活用した方が、現場で泥臭く一人ひとりの声を集めるよりも短時間により多くの声を集められるから、かれらは「SNSの方がより幅広い声を効率的にたくさん集めて、政策に反映できる」と素朴に確信した。だが実際はそうではなかった。

SNSでは、政治的に先鋭化している人の声がはるかに大きく、なおかつ高頻度に表示されるという特徴にかれらは気づかなかった。「物言わぬ大衆の声」は、SNSには反映されず、かき消されてしまっていたのだ。

傍から見れば、いまの立憲民主党はSNSで大声を上げるピーキーな支持者の歓心を集める方向で加速しているようにしか思えないが、しかし当事者たちの主観的な視点からは、もはやそのような感覚は持ちえない。論をまたずに「ただしい」はずのこうした公約に戸惑いや批判の声を寄せているのは、自民党を妄信する狭量なネトウヨだけであり、私たちは広く市民社会の声を反映している――ということになっている。その判断が本当にただしかったかどうかは、次の自民党政権との闘いのなかで明らかになるだろう。

自民党とて「熱狂的な支持者」による盤石な基盤に支えられているわけではない。むしろかれらは「消極的支持者」によってその命脈をつないでいる。どうにもズレた公約を最優先事に掲げて大衆から呆れられる立憲民主党に無邪気な賞賛や共感を寄せるファンたちの言動こそが「消極的な自民党支持者」を拡大する最大の立役者となっている。

自民党は嫌だが、かといって代わりになるような他の政党はいないかと見回したときに暗澹たる気分になり、深いため息をつきながら投票所に赴き、選挙区でも比例区でも自民党と書かなければならない――そんな人を、ご親切なことに野党が率先して増やしてくれるからこそ、自民党はいつも負けないのである。

※出典:
菅内閣支持率57% 7ポイント下落 学術会議任命拒否「問題」37% 毎日新聞世論調査 毎日新聞. 2020/11/7
https://mainichi.jp/articles/20201107/k00/00m/010/124000c

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