菅首相が論点ずらしを続けたワケ – 物江 潤

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自民党総裁選の不出馬により、菅義偉首相の退陣が決まった。菅政権を総括する報道・論考等は新型コロナ対策の評価に多くの紙幅が割かれており、その内容は賛否両論であった一方、菅首相の答弁については「中身がない」といった批判が散見された。菅首相に限らず、同様の無内容な答弁は国会にてよく見られる。

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繰り返される「中身のない答弁」

昨今、政治家による論点ずらしの術である「ご飯論法」が注目を集めたり、菅首相と「東大話法」を結び付けた宇佐美典也氏の著書『菅政権 東大話法とやってる感政治』(星海社新書)が出版されたりと、政治家の弁論術には悪い意味で注目が集まっている。ご飯論法とは、質問を曲解したうえで返答する論点ずらしの話法を指す。たとえば、朝ごはんを食べたかと問われ、朝に食べたのはパンであり白米ではないという理由により「ご飯は食べていない」と強弁するといった具合だ。

ちなみにだが、似たような話法として哲学者のベンサムが命名した「かたつむり論法」と呼ばれるものもある。修辞学者の香西秀信氏が著書『反論の技術』(明治図書出版)にて紹介しているが、これは勝ち目のない議論をはじめないための技術だ。

たとえば、反論不能な正論が登場したとする。これに真正面から応答しても勝ち目はない。だから、とりあえず正論を肯定したうえで「大変に重要な課題ですから、プロジェクトチームを作ってじっくり検討しましょう」といった具合にその場を乗り切ったうえで時間を稼ぎ、あわよくば闇に葬ってしまうのだ。冒頭に紹介した話法・論法もそうだが、こうした手法は弁論術というよりも「弁論回避術」と見なした方が正確であり、こんな技術が多用されてしまっては議論にならない。

そして実際、まともに議論をしようとしない政治家は多い。揚げ足取りや無内容な答弁の繰り返しはお馴染みの光景だ。

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こんな状況だからか、政界は人材難だとする嘆きが絶えない。なぜ政治家は劣化したのかといった話もよく耳にする。自由闊達な議論を通じ決定を下すのが政治家の仕事だから、こうした嘆息は当然に思える。自然の流れとして、優秀な政治家を求める声が噴出する。

しかし、本当に優秀な政治家が増えれば事態は改善するのだろうか。無内容な主張やはぐらかしの答弁は減り、有意義な議論が繰り広げられるのだろうか。おそらくそうはならない。それどころか、このままでは優秀な政治家が増えれば増えるほど、こと議論の質に関しては悪化しかねない。

なぜ政治家の弁論回避は問題なのか

このことを説明するために、まずは選挙と民主主義の関係を補助線として引くことからはじめたい。

民主主義と選挙は大変に相性がよいように思えるが、決してそうではない。選挙を実施すれば、当選しうる国民は能力・経済力等に恵まれた者に事実上限られてしまうためだ。一部の人に権力を集中させるのではなく、国民全員が主権を持つという民主主義の原理原則に照らし合わせれば、現状の選挙よりもくじ引きで政治家を決めた方がずっとよい。

選挙には膨大な税金がかかっている旨を伝える報道はよく目にするが、本当に痛手であるコストは税金ではない。社会を支えている民主主義そのものを棄損しかねない点に、多大な犠牲がある。

それでは、なぜこれほどの代償を払ってまで選挙を実施するのか。

それは、政治家が国民の声をそのまま代弁する代理人ではなく、代表であった方がよいと見なされているからだ。高度な専門性がないと政治家は十分な仕事ができないので、無作為に選ばれた代理人ではなく、一定の能力を有した代表を選抜すべきということだ。ここには、民主主義を棄損しかねないというデメリットは、代表たちの自由闊達な議論より得られる適切な決定(メリット)によってカバーできるという前提がある。

以上のことを念頭に置けば、弁論回避が大変重大な職務放棄であることが分かる。職場の同僚が弁論回避術を使うこともあるだろうが、政治家の弁論は多大な代償を支払ってまで信託した仕事そのものなのだから、決して同一視してはならない。

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政治家にとって弁論回避は「合理的」?

が、この職務放棄が甚だ軽視されてしまっている。そしてそんな異常事態は、失言をめぐる批判を概観すればよく分かる。

たしかに、失言のなかには決して看過してはならないものもある。しかし、基本的に失言は、職務(弁論)を遂行した結果として生じた過失だ。職務放棄である弁論回避の方が問題であるのは論を俟たないだろう。

些末な失言により生じる損失より、自由闊達な議論を通じ得られる利益の方が明らかに大きい。日本国憲法の第五十一条には「両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。」とあるように、国会において自由な議論がなされるよう細心の注意が払われている。失言への過剰なまでの批判は、こうした配慮を無下にする行為だ。

また、明白な失言ならまだしも、なかには拡大解釈や発言の切り貼りによって失言が演出されることも珍しくない。そのうえネット社会の発達により、こうした捏造紛いの行為により創作された失言が容易に拡散し、被害が拡大しやすくなった。これらの行為は、政治家による自由な議論を阻害しているという点で大変に罪深い。

たとえ捏造紛いでも失言には強い批判が寄せられ、落選に繋がることさえある。その一方、たまさか弁論回避に批判が飛んだとして、それが政治生命を脅かすことはない。何ら咎めのない弁論回避もそこかしこにある。

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こうした状況において、合理的思考に秀でた優れた政治家はどうするか。

その答えは至って簡単。拡大解釈や切り貼りさえできないほどの、徹底的に無内容の答弁をするだろう。

国会で雄弁を振るったり、建設的な議論の構築に努めたりしても取り上げられず、一部の玄人筋を除いては評価どころか認知もされない。答弁により得られる利益の小ささに比べ、答弁で生じる失言の損失があまりにも大きいのだから、実質的な答弁はしない方がよいに決まっている。弁論回避術を学び、自由自在に駆使するのが合理的になってしまう。一方、答弁を求める側は失言を引き出すべく、揚げ足取りや挑発の技術を磨くことが合理的になる。優秀な政治家が増えれば事態が改善するかと問われれば極めて疑わしく、それどころか悪化するおそれさえあるという、全く笑えない状況が見えてくる。

国民が不誠実な政治家を生む

「政治家さえよくなれば社会はよくなる」

この言葉は正論に思われるが、民主主義の精神に照らし合わせた途端、全くもって不適切なものに様変わりする。

「政治家が変わっても、どうせ何も変わらない」

一見すると不見識な若者による戯言のようだが、こちらの方がよほど民主主義の精神に近い。「だから自分たちで頑張ろう」と続けば、先の言葉とは雲泥の差がつく。

(間接)民主主義では、国民の代表たる政治家を国民自らが選ぶ。そして、弁論回避という極めて重大な職務放棄が横行しているように、良くも悪くも政治家の行動を左右するのも国民だ。だから、偶然に偶然が重なり優秀な政治家が増えたとしても、彼らを評価する国民に難があれば、たちまち優れた政治家は輝きを失う。

政治家の選出とその後の評価を一手に引き受けるという、重大な仕事が国民には与えられている。主権者である国民と、国民に政治家の言動を伝えるメディアには重要な日々の職務がある。もし、そんな職務を遂行する気構えがないならば、もはや民主主義は露ほどもない。

「何から何まで政治家任せ」という姿勢は、民主主義の精神から最も遠い。政治家をよくして社会をよくしたいならば、その前に主権者である私たちがよくならなければならない。

国の在り方を最終的に決定する最高の力を有するのは総理大臣ではなく、主権者である国民だ(参考:参議院憲法審査会『日本国憲法に関する調査報告書』)。その力を国民が適切に使えば政治家は輝き、そうでなければたちまち悪政がはびこる。

そのことを忘れてしまうと、いつまで経っても政治家は不誠実なままだし、社会もよくならない。弁論回避や揚げ足取りばかりの国会を作ったのは、主権者である私たち国民に他ならないのだ。

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