ある日のこと。車に乗って信号待ちをしていた時である。何気なく美容室の建物に目を向けたところ、なんだかおかしい。
ぎっしりと埋まっているのだ。玄関が、外壁の一部が、ブチ抜かれて、商品で埋め尽くされているのだ。
外から確認できるだけでも、本、洋服、楽器やキッチン用品や家電。中には段ボールや箱に入っていて姿が見えないものもある。
HARDOFFをバックヤードごと二度シェイクしたかのような、ジャンルを越えた物の集合体だった。
信号待ちの短い時間で必死に情報を探すと、壁に古物商 万徳屋(まんとくや)の屋号が手書きされているのを発見した。どうも、リサイクルショップのようだ。
「美容室いちまる」を居抜いた古物のお店
こちらがそのお店。外観は、ほとんど開放されつつも商品でぎっしりと埋まっている。
まわりにはかつて商店街の名残でシャッターが閉まった建物が多く見受けられるが、ここだけは圧倒的にぎやかさだ。
「美容室いちまる」と文字看板は残っているが、そのお役目は終えているみたい。
ここで書いておきたいのは、このお店は、この見た目でありながら最近オープンしたお店、ということだ。
これまで通りがかったときには見たことがなかった。突然あらわれ、イキナリこの年季。どういうことなんだろう。
そしてなによりおもしろいのは店の屋号だ。マジックペンのようなもので手書きされているのがとても潔い。
見たときわたしは「ロックだな!」と興奮し、スマホで写真を撮った。喜びを分かち合いたくて、すぐさま夫に報告した。
そして帰宅後「こんど絶対いくんだもんね!」と息巻いていたのだが、結局勇気が出ずなかなか足を運べなかったのだ。
なぜならわたしは、古物商といえばアンティークしかない、と超単純に捉えており、冷やかしへの風当たりが強いのではと恐れていたからだ。
けれど、何度か店の前を通っては眺めているうちに、店主にお話を聞きたい気持ちの方が大きくなっていった。
怒られたらしょうがない。ええい、ままよ!
「こんにちは……」
ドキドキしながら声を絞りだす。「はい、いらっしゃい」と、店から入ってすぐ右手側から聴こえてきた。
人一人がやっと通れる隙間をカニ歩きで進む。すると、小さなライトに照らされた人一人分のスペースがぽっかり空いていた。
店内にはテレビ番組の音声がけたたましく流れている。
商品だろうか、洋服やバッグに囲まれ、椅子にゆったりと腰掛けていたのが店主・有薗隆徳さんだった。
――少し、見てもいいですか。郷土史に興味があって、よければお話を聞かせてくれませんか。
緊張する声をふり絞り、やや声を張って呼びかける。
これまで勇気がなかったくせに、まるで偶然通りかかってフラッと入ったかのような言い方である。
はいはい、いいですよ。どうぞ。
テレビのボリュームを少し下げ、隆徳さんは穏やかな表情で応えてくれた。わたしは小さくガッツポーズをした。
小物、洋服、服飾、家電、本やCDなどが所狭しと並ぶ
店から溢れんばかりの商品たちは、ジャンルを飛び越えて所狭しと並ぶ。というより積まれているといった方がいいかもしれない。
古本やCD、DVDに懐かしのVHS。洋服やバッグ、小物。コンテナや段ボールに入っていて姿が見えないものもある。
――商品数すごいですね。最近オープンされたようですが、どうやってここまで集めたのでしょうか。
1から仕入れたんですよ。
――えぇっ!1から!?
そうです。美容室いちまるの看板が残っとったでしょ。美容室だったココを一旦空っぽにして、12月下旬ぐらいから商品を仕入れ始めて。今はこんな感じ。
――えっ、オープンからまだ9ヶ月ということですか。そんな短期間でこの年季が入った状態に……!
オープンしたときにはだいたい今と同じぐらいの状態よ。いや、もっと商品の数は少なかったか。一度の仕入れが多いから、商品も一気に溜まって。そんなにポンポン売れるものでもないからね、これからは増えていく一方でしょう。
まぁ立ち話も何だから、と、隆徳さんに在庫の入った段ボールの上に座るよう促された。
ちらっと中を覗いてみると大量の使い捨てライターが入っていた。これもきっと商品なのだろう。
そうしているあいだに、ちょっと気づいたことがある。万徳屋という屋号の古物商店は、もうずっと前からあるじゃないか。
ひょっとして、このお店、分店とか、そういうことじゃないか。
思い切ってうかがってみた。
――もしかして、こちらのお店って、ずっと前からある「万徳屋」さんと関係がありますか。
あぁ、いま弟がしてるところね。
やっぱりそうだった!
月に3度、どっさり仕入れる
さらにお伺いしたところ、こちらは「万徳屋」の本店から暖簾分け(?)して誕生し、主に日用雑貨や服飾を取り扱っているそうだ。
車や船舶、機械類など大型のものを扱う本店と、少し違うジャンルのものを仕入れているとのこと。
商品の数については、もはや仕入れたご本人も把握できていない。長崎市で月に3度行われる古物商のマーケットに、弟さん家族と軽トラに乗り込み向かうらしい。
経営はそれぞれ独立しているが、屋号は同じで、仕入れも一緒。なので、だいたいお互いのお店のようすは把握しているらしい。
数週間前、本店の店頭に大太鼓が並んでいるのを見て興奮したことを話した。
――本店の入口に大太鼓があって。大きさのスケールが他と違い過ぎて興奮したんですけれども、あれって売れたんですかね。
うん、売れたみたいよ。
――もともと注文が入ってたものなんですか?
いや、売れるかなって仕入れた。直感みたいなもので。カセットテープやCD、本なんかは、基本セットで売ってあるものをごっそり買うし、売れるだろうという気持ちで仕入れてるけど、コレ売れたら面白いな、どんな人が買うんだろう、という楽しみも半々ぐらい。
――確かに、ざっと見渡す限り、お宝探しのような要素もありますね。
うん、楽しかよ。普通に買いに来るよ。お年寄りが世間話がてら来ることが多いけど、中には若い子もね。カセットやレコードとか、物珍しさに買っていく。
どこにあるのかだいたい分かるけど、待っててほしい時もある
若い子も来るのか!とびっくりしてしまった。わたしの思う“若い子”よりうんと年上の方かもしれないが。
しかし、隆徳さんとお話ししていたとき、30代の男性が慣れた様子で来店し、ケースに入った日本人形を物色していた。
どうも常連客のようで、楽しく談笑していた。接客の邪魔をしては悪いとじっとしていたが、迫りくる物量にややそわそわしていた。
――失礼ですが、商品の場所って把握されてますか?
だいたいは分かるけどね。けどこないだ、「グラインダーがほしい」ってお客さん来られた時、「あると思うけど、ちょっと探すから見つかったら連絡するね」ってお伝えしたことがあるよ。
――この物量ですもんね。「全然構いませんよ、急がなくて良いですから」って、わたしがお客さんなら言っちゃうなぁ。
生まれも育ちも商売人
万徳屋の創業自体は50年以上になるという。
前身は隆徳さんのご両親が経営していた有薗文明堂。万年筆専門店で、両親とお手伝いさん数人で切り盛りしていたそうだ。
松月堂(させぼ四ヶ町商店街にある、創業明治38年の老舗和菓子屋)の隣でやってました。昭和21年頃までだったと思う。その後は第二次世界大戦が始まって、僕が小学2年生の頃、大野に疎開してね。けど両親は看板を畳まずに、学校の正門の前に台を置いて、学生さん相手に商売していたよ。
そして戦後、新たに始めた商売が古道具屋だったという。
僕の名前が「隆徳」なんだけど、そこから一文字取って父が「万徳屋」と屋号をつけました。縁起の良い字面でもあったのでね。戦後すぐは古道具屋をやっているお店は少なかったと思う。物が少ない時代だったから、仕入れれば何だって売れたそうですよ。
――隆徳さんはずっとお店のお手伝いを?
いえ、20歳の頃だったかな。知り合いのつてで大阪に働きに出ました。手芸用品の卸売業というか、ボタン屋さんで2年。そのあと独立して、ボタンや糸、針、とにかく洋裁道具全般ですね、それをバイクに積んで売って回る商売をしよったです。
――商売人の血が流れておりますね!
20年頑張りました。はじめはバイクに重たい商品を積んで走っていたのが、お給料で車を買って。お得意先も沢山増えて、200件はあったかな。
――おひとりで200件開拓ですか。すごい!
もちろん前職や人からのご縁もあったけど。対面販売はやっぱり楽しいんですよね。
両親から受け継いだ商売人気質を存分に生かし、隆徳さんは昼夜問わず働いたという。当時の娯楽について尋ねると「仕事一筋」と笑顔で返ってきた。
兄弟家族で万徳屋を継ぐ
洋裁店に勤めていた女性と結婚し、大阪での暮らしも落ち着いてきた昭和52年。40歳の時だった。父親の他界をきっかけに、残された母親と弟を支える形で佐世保へ帰ってきた。
弟はずっと前から両親の手伝いをしてましたから、僕たちもそれに加わる形で。まだまだ物がない時代だったから、仕入れた分はどんどん売れた。
――仕入れ先はどこになるんですか?
いまと違って、当時は一般家庭やお店から直接買い取ることが多かった。引越や移転閉店のタイミングで、一軒分まるごと購入してた。あとは公売ね。国税局や税務署が差し押さえた財産を入札して買う。
――一軒分とは、かなりのボリュームだったでしょう。
そうですね。査定は僕と妻の二人でやってましたから。朝から晩まで大変でしたよ。お店(現在の本店)の2階から4階は住まいだったんだけど、帰ってきてから2年ほどはそこで子育てをしながら住み込みで働いてました。
弟さんを主軸に置きながらの家族商売。区画整理でまちの風景はすっかり様変わりしたが、世代を越えて訪れる常連客などの人足は途絶えることはなかった。
そんななか、ともに家計を支えてきた夫人が62歳で亡くなった。すい臓がんだった。次いで、お子さんの一人を30代の若さで失う。
息子も癌だった。二人とも早すぎだよって。もう、何と言葉にしていいかわからない。ちなみに僕は、いま前立腺がんなんですよ。ゆったりと病院に通ってますがね。なにせ甘いものが食べられないので辛い。
隆徳さんがくしゃっと笑う。早すぎる家族の死を乗り越えられたのかはわたしには分からないが、その表情に刻まれた皺には、本当にいろいろなものが詰まっているのだろうなと思う。
その後、紆余曲折あり、本店を弟さんに譲ったという。
――ひょっとして喧嘩したんですか。
いや、もともと弟がずっと万徳屋を手伝っていたからね。それに、何でも売れていた昔と違って、お客さんの流れもガラリと変わった。引き時かなぁと思った。
隆徳さんは別の仕事に就き、20年続け退職。その後、ふと思い立ち、娘さんと二人で、車で日本を一周することにした。
沖縄からスタートし、約一年半かけて北海道までの47都道府県ドライブ旅を愉しんだ。
旅行はもともと好きでしたから。国内外よく行ってましたよ。日本一周は、やってよかった。娘ともたくさん話せた。長距離だったけど、車が好きだから苦ではなかった。コロナ禍の前で良かったですよ。人生やり切った気持ちでしたね。
と、言い終えてまたふいに一言。
あ、佐渡は遠すぎて行けなかったんだ。まだやり切ってない!
――来年の目標ができましたね。
本当ね。佐渡、行かんばね。
一年半の旅のあと、隆徳さんの頭をよぎったのは「やっぱり古物商をしたい!」という思いだった。そこで、たまたま閉店したばかりの美容院が万徳屋本店近くにあるという情報をゲットし、購入に至った。
そのとき彼は84歳。業者を雇わず自分1人で内装をつぶし、弟家族と仕入れに赴き、商品で店内を満たし、マジックペンで外の壁に「古物商万徳屋」の文字を書いた。
――あの手書き文字は、ロックだなと思いました。
そう(笑)?業者に頼むほどでもないと思ったから、外観の「美容室いちまる」の文字看板はそのままにしたよ。ここが万徳屋だというのは、見る人が見て分かれば良いと思って。消えたらまた書き直せばいいし。
やっぱりカッコいい。見てくれは二の次。ここは第二の居場所。来るものは拒まず。
宣伝もないまま、もう一つの万徳屋がひっそりとオープンした。
店として積み上げてきた時間はまだ一年未満。だが、さまざまな時代を越えて集まってきた商品や、店主・隆徳さんが辿ってきた時間の重みは見えない形でそこかしこに存在している。
いろいろあったけど、やっぱり古物商って面白いんですよね。あなたもやってみるといい。簡単だから。
わたしは「そんなサラッと。古物商歴がわたしの年齢以上の隆徳さんだからこそのお言葉ですよ!」と突っ込みながら、一国一城の主が微笑むのにつられて笑った。
古物商はおもしろい
――ずばり、古物商のおもしろさって何でしょう。
思い通りにならんところです。「これは売れる!」と仕入れるでしょう。けど、お客さんも同じとは限らない。でも人によってはこっちが思った以上の価値を感じる方もいるし、逆も然り。特に、僕のように日用品を扱っている者にとってはお客さん次第なところが大きい。けれどそれが楽しいんですよね。
――さっき、「これ売れるのかな?」って思いながら仕入れることもある、とおっしゃってましたもんね。
そう。それが売れたら、飛び上がるほど嬉しいんですよ。あと、仕入れるときも、こっちが思った値段で買えないことも多くて。そこからどう値段設定していくかを考えるのも楽しさの1つです。
――価格設定ってどうされてるんですか?
売れるやろう、って値段で。あちこち見て回って決めたりはせんよ。売れんなら売れんでも大丈夫。今は、生活のためというか、一日の大半をここで過ごすのが好きだから、やってるだけね。エアコンつけないから夏冬は大変だけど、物に囲まれて、お客さんと会話するのがなにより楽しいからね。
――いまこの瞬間もそう思っててくださったら嬉しいです。
うん。生きてたら楽しい。のんびりやっていきますよ。またおいでね。話し相手ぐらいにはなれるから。僕はいつだってここにいるんだから。
――ありがとうございます、泣いてもいいですか。
調子に乗って無茶ぶりをしてしまう
すっかり楽しくなってしまったわたしは、「1000円でなにか見繕ってくれませんか」と無茶ぶりをしてしまった。
そうね~といいながら、隆徳さんが山のような商品からガサガサと探してくれたのは、『AAA』のグッズとストッキングだった。
可愛い枕も発見した。
家に持って帰ると子どもたちが大はしゃぎ。大切に抱きしめていました。
このことを隆徳さんに伝えたらどんな顔するかなー。とても楽しみです。
勇気を出して、次は本店の方でもお買い物してみよう。