■超シンプルに考えるお金の例え話
例えば、世の中に「Aさん」「Bさん」「Cさん」という3人の人間しか存在せず、現金も300万円しかない世界を想像してみよう。
その場合、3人で300万円のお金を回すことで経済運営をしていかなければならない。ある時は生産者となり、ある時は消費者となって、ぐるぐるとお金を回転させる。そのお金が滞りなく巡っている間は、特に何の問題も起こらず、平穏な生活を送ることができるかもしれない。
しかし、ある時、「Aさん」が将来に不安を覚えて30万円を貯蓄することにしたとしよう。その場合、3人は270万円のお金を運用しなければいけなくなる。
その後、「Aさん」が抜け駆け(貯蓄)していることを知った「Bさん」も「Cさん」も、それぞれ貯蓄に励むようになり、「Bさん」も30万円貯蓄し、「Cさん」も30万円貯蓄した。
すると、その結果、それまで動いていた金額が3割減少し、210万円で運用していかなければいけなくなるので、当然、生活は厳しくなる。
「Bさん」と「Cさん」に真似をされた「Aさん」は、少しイラッときて、今度は、「貯金に年利1%の利子を付けよう」と言い出した。そうなると、合計90万円の貯蓄は1年後には90万9000円になってしまう。2年後には利子が付いた90万9000円に更に利子が付いて91万8090円、3年後には…という具合にどんどん複利が付いていき、雪だるま式にお金(額面)が増えていってしまう。
しかし、ここで考えなければいけないことは、元々の300万円は固定のまんまということである。利子が付いてお金が増えたと喜んでいても、その利子の分だけお金が目減りしているに過ぎないということに気付かなかった3人の生活は、利子で目減りした分だけ、お金の巡りが悪くなっていき、そのうち破綻してしまうことになる。
■「無から有を創り出せ」と言う財政破綻論者達
この例え話で分かることは、2つの出来事によって、経済はシュリンク(縮小)してしまうということである。1つは、人間の心、もう1つは、利子。この2つが有るがために、お金というものは増やさなければならない。それが資本主義の宿痾であるということ。
人々の不安感から生じる貯蓄と、お金の運用にかかる利子というものが存在する限り、必然的に経済はシュリンクしていくことになる。だからこそ、時と場合に応じて、お金の総量は増やしていかなければいけない。なぜなら、そうしなければ、経済は破綻してしまうから。至極シンプルな話である。
しかし、財政破綻論者達は、お金の総量が固定という思い込みを抱いているにも拘らず、お金を増やしてはいけない(=国債を極力刷ってはいけない)と言う。
先の例え話で言えば、300万円しかないのに、利子が付いて額面が303万円になった場合、その増えた3万円はどうやって工面すると言うのだろうか? 300万円が滞りなく運用できれば303万円になるとでも言うのだろうか?
利子が付くということは、お金が増えるということなので、その分のお金は誰か(政府)が市場に供給しなければ辻褄が合わなくなる。それが資本主義というものなので仕方がない。
財政破綻論者達の言っていることは、「利子が付いて303万円になったとしても、300万円は固定のままで借金はしてはいけない」と言っているようなものだと言える。それは換言すると「無から有を創り出せ」と言っているのと同義である。
上記はあくまでも、お金の総量は変わらないという間違った経済認識を基準に述べたものであり、実際は違う。現代の貨幣は条件次第ではいくらでも創造できる(無から有を創り出せる)ようになっているので、財政破綻論者達は2重の間違いをしているのだが、そのことについては今回は触れない。