なぜ迷走?教育改革が持つ厄介さ – 物江 潤

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衆院選がはじまり、各党が選挙公約を公式サイトなどで発表している。各党、力を入れているが、どの党も取り上げる公約のひとつに「教育」がある。日本では2006年の教育基本法改正にはじまり、教育への関心が高い状態が続いている。

なかでもここ数年世間を騒がせたのが「大学入試改革」である。共通テストと英語民間試験により受験生の学力を測ろうとしたこの取り組みは、2021年6月22日の「第二十七回大学入試のあり方に関する検討会議」で見送りが決まり、事実上頓挫した。

2013年の教育再生実行会議の開催からはじまったこの取り組みはなぜ8年もの時間をかけて失敗することになったのか。紐解いていくと、教育問題がもつ特有の「厄介さ」と、日本の行政の「先送り体質」が見えてきた。

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支離滅裂な認識でPRされた記述試験の導入

「国立大生の60%はマークシート入試だから一文字も書かずに合格している」

大学入学共通テストに記述試験を導入すべきだと各メディアでアピールしていた委員が、ある書籍でおこなっていた主張である。私はこれを目にしたとき、あまりの支離滅裂な現状認識に憤りを覚えた。

ほぼ全ての国立大学が記述試験を含んだ二次試験を実施するため、一文字も書かず入学した国立大生など極めて珍しい存在だ。こんな頓珍漢な認識を持っているということは、各大学の入試問題を解くどころか、ろくに確認さえしていないのだろう。私が開業している学習塾の生徒たちも、こんな無責任な行為によって右往左往していたのかと思うと、「受験生は怒ってよい」とでも言いたくなる。

支離滅裂な現状認識に基づき議論が進むほどに、現実離れした理想は膨らむだけ膨んだが、それを撤収するのに多くの時間を要してしまった。こうした失態については教育の現場を担う人間として、総括が必要だと強く訴えたい。

とかく語りやすい教育問題

入試改革が失敗した原因は多岐にわたるが、教育問題の語りやすさもその一因だ。誰しもが教育を受け、多くの人が誰かを教育した経験があるため、誰でも一家言を持てる。だから、事前に勉強をして現状を把握せずとも容易に議論ができてしまう。

入試改革に関する議論においても、根拠なき印象論や、現状を把握しているとは到底思えない理想論が飛び交った。「記述試験の導入によって主体的に学び考える力や汎用的能力を計測する」「国立大の二次試験を全て廃止にすべき(=練りに練られた東大の二次試験さえ、共通試験で代替できる)」といった理想論は、実際の議論に登場したほんの一例だ。導入される予定だった記述試験は国立大の二次試験よりはるかに簡易的なものだったが、それに「主体的に学び考える力」や「汎用的能力」の計測を求めるというのは、もはや夢物語だろう。これらの能力を測定するのは、本格的な記述試験でさえ容易ではない。

また、教育は希望の漂流地でもある。

そこかしこに存在する問題のほぼすべては、何らかの形で人間が関わっている。だから、より良き人間を育成することで解決を図ろうとする考えに帰着しがちだ。なかには、解決困難な課題に対し、人材育成に最後の望みを託すケースもあるだろう。結果、教育にはありとあらゆる分野から希望が漂流する。教育問題が語りやすいことも相まって、漂流した数多の希望は理想となり、どんどん膨れ上がっていく。

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