「娘殺し」で冤罪の女性が国提訴 – 小林ゆうこ

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冤罪ーー。「無実の罪」あるいは、「ぬれぎぬ」。「濡れ衣を着る」とは、「無実の罪を受けること」だ。その無実の罪で逮捕された青木惠子さん(57歳)は、21年間を獄中で過ごした。同居男性(55歳)と共に、「保険金目的の放火殺人」「詐欺未遂」という濡れ衣を着せられた。

2016年にようやく無罪を勝ち取った青木さんは、なぜ冤罪は作られたのか、真相を明らかにしたいと、国と大阪府に約1億4千万円の損害賠償を求めて国家賠償訴訟(以下、国賠)を起こした。その裁判も9月16日に大阪地裁(本田能久裁判長)で結審。来春の判決を待ちながら、「事件」から26年目の秋を過ごしている。

21年間を獄中で過ごした青木惠子さん

獄中から無実を叫び続けた21年間

1995年7月22日のことだった。大阪市東住吉区の青木さん宅で火災が発生。1階のガレージに停めた軽ワゴン車(ホンダ・アクティ)から漏れたガソリンが気化して風呂釜の種火に引火、家屋が全焼した。入浴中だった青木さんの長女・めぐみさん(当時11歳)が逃げ遅れて亡くなった。ただ、火災の原因が弁護団による燃焼実験で明らかになったのは、ずっと後のこと。娘を失って悲しみのどん底にいる青木さんを、冤罪が襲った。

9月10日、青木さんと同居男性は逮捕された。2人を犯人とした直接の証拠は自白書だけだった。2006年に無期懲役の有罪判決が宣告された。

その後、再審請求が認められ、刑が執行停止となったのは、2015年。青木さんは晴れて自由の身になり、さらに2016年に無罪が確定した。

「自白には誘導された疑いがあった」「火災は自然発火の可能性がある」と、判決は自白を証拠から排除した。青木さんは「真っ白な判決を受けた。娘殺しの母親から、娘の死を悲しむ普通の母親になれた」と、支援者に囲まれて喜びの涙を流したーー。

徳島刑務所を訪れた青木惠子さん

「恩返ししたい」冤罪の仲間を訪ねるわけ

今年9月末、青木さんは徳島刑務所を訪れていた。京都市下京区で起きた放火殺人事件(2003年)で無期懲役の判決を受けた平野義幸受刑者(57歳)に面会するためだ。彼も獄中から冤罪を訴えている。

大阪から3時間かけ高速バスで徳島市入りしていた青木さんは、約束したホテルで待ち合わせた私に対し、冤罪被害者への支援を「私からの恩返し」と表現した。

「冤罪を晴らすまで、多くの支援者に助けていただいた。皆さんへの感謝の気持ちを、冤罪で苦しむ仲間たちを励ますことで恩返ししたい。無実の罪で獄中にいる人の気持ちは、経験した者でないと分からないから」

青木さんの日常は忙しい。チラシ配りと新聞の集金のアルバイトを掛け持ちしつつ、めぐみさんの月命日(22日)と週に一度のお墓参り、誕生日(10日)のお祝いを欠かさない。私と会った夜も、活動仲間や友人からメールや電話が頻繁に入ってくる。

慌ただしいなか、家の大掃除もしてきたという。「だって、旅先で不慮の事故に遭うかもしれないでしょう。人生何が起こるか分からない。明日あなたも冤罪で捕まるかもしれないのよ」

確かに「明日は我が身」だ。青木さんのように、動機も物的証拠も目撃者もいないのに、殺人犯に仕立てられることがあるのだから。それにしても、まさか「やっていない」ことを「やった」として濡れ衣を着せられるとは、時代劇の捕物帳のようだ。


男から娘への性的虐待が冤罪を生んだ

「まさか」の正体は、青木さんに次第に忍び寄っていた。それが姿を現したのは、火災から5日後のことだ。7月27日の早朝、親戚から「『おはよう朝日』(朝日放送)で、火事の原因は放火と言ってるで」と電話が入る。朝日新聞朝刊の社会面には、「東住吉の小六/入浴中の焼死 放火と府警断定」との見出しで報じられていた。

7月30日、その「まさか」は確信に変わっていく。2人は長時間にわたる事情聴取を受けたが、それは警察が重要参考人とその共犯者として疑っているからだと、同居男性は聞かされた。

「警察の中でトイレに行こうとすると、刑事がついて来るのです。事情聴取が終われば、帰りは刑事が車で送ってくれる。これは…と思い、私は言ったのです。娘を殺した犯人だとでも言うの?って」

8月12日、同居男性だけが警察に呼ばれたが、向かった先は捜査本部だった。実は同居男性は、めぐみさんに性的虐待を繰り返していた。遺体の痕跡からその事実を掴んだ警察は、この日、男にその事実を自供させた。ところが、警察と同居男性は、青木さんにはこのことを伏せていた。

少し沈黙した後、青木さんは一気に語った。「男は性的虐待のことを警察に言って、どうして私には言わなかったのか。もし、私が聞いていたら、逮捕されることもなかったのです。そんな話、聞いた瞬間に、私は男と別れていました」

青木さんはシングルマザーだった。前夫との間に生まれためぐみさんと長男(火災当時8歳)を育てていた。同居男性は、離婚してから青木さんが働いた大阪市平野区にあるスナックの常連客で、子どもたちとよく遊んでくれたという。楽しそうな子どもたちに、「Bさんと一緒に住んでもいい?」と聞くと、「いいよ、住もうよ」と賛成してくれた。1990年、大阪で開かれた花博(国際花と緑の博覧会)を一緒に訪れた後のことだ。

男性との同居は、喜んでくれる子どもたちのためだった。「だから…」と続ける声のトーンが少し低くなる。「同居するとき、男に条件を出したんです。入籍はしない、(2人の間に)子どもは作らない、子どもが欲しいなら他の人とどうぞって。それなのに……。私がそんな男を許せる訳がない……」

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