自粛=感染防止という発想見直せ – PRESIDENT Online

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政府は今年1月以降、新型コロナウイルス対策として緊急事態宣言の延長を繰り返している。しかし東京五輪の前後では感染拡大が続いたことから、さらに厳しいロックダウン(都市封鎖)を求める声もあがった。立命館大学の美馬達哉教授は「罰則や法律を付け加えれば感染防止が図れる、という発想そのものをいま一度見直すべきだ」という――。

記者会見する菅義偉首相(左)。右は政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長記者会見する菅義偉首相(左)。右は政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長=2021年9月9日、首相官邸 – 写真=時事通信フォト

そもそも「ロックダウン」とは何なのか

ロックダウンについて、政治の世界でいろいろ議論が盛り上がっている。

だが、改めて「ロックダウンとは?」と問い直してみると、正確に答えるのは難しい。

というのも、新型コロナの流行前にロックダウンが先進国で大規模に行われたことはほとんどなく、その方法や範囲も国によってさまざまで、実ははっきりした定義は存在しないからだ。

大きく分けて、ロックダウンには2つの事柄が含まれている。

一つは、多くの人々が近い距離で集まることを避ける趣旨のもので、大人数での集会の禁止や施設の利用制限、生活必需品の販売や必須サービス業以外の営業の禁止、休校などである。

もう一つは、人々の動きを全般的に差し止める趣旨のもので、必要不可欠な業務以外の在宅勤務、生活必需品の入手や通院以外での自宅待機、ほかの地域との交通遮断などである。

これらが、世界各国でのロックダウンで共通する内容で、人から人に伝染する呼吸器感染症の防止の基本となる。

ここで挙げた措置の中で、どれを重視するかには国ごとの違いがあり、その方法としても、たんなる推奨、経済的な優遇、罰則をつけた禁止など強弱がある。

「必要不可欠」の定義もフレキシブルで、ヨーロッパでは、罰則付きの厳しい自宅待機であっても、飼い犬の散歩は必要不可欠な外出として認められる。

つまり、ロックダウンを考える上では、罰則の有無という方法にこだわる近視眼的な見方ではなく、国ごとの文化や慣習を尊重しつつ、普通の人々の生活を守って新型コロナを抑え込むという目的の達成には、どういう手法をミックスすべきかという柔軟な思考が必要なのだ。

ここでは、ロックダウンを理解して是非を考えるため、まずは医学的な感染症予防の中での位置付け、次に感染症予防という公益と個人の人権のバランスという点を見た上で、最後に法制化の利点と欠点を整理しよう。

医薬品では解決できない感染症を抑える4つの方法

公衆衛生の専門用語でいえば、ロックダウンは「非製薬的介入(NPI)」の一部に含まれる。

感染症対策の中でも、治療薬やワクチン、つまり医薬品を使って新型コロナを抑え込もうとするのが「製薬的介入」だ。

有効な医薬品があるなら、新型コロナは医療従事者に任せることができて、一般市民が特別に心配しなくてもよいのだが、現在のところ、そうはなっていない。

そこで必要となるのが、治療薬やワクチン以外の感染症予防であり、まとめて非製薬的介入と呼ばれる。

非製薬的介入には、①個人の対策、②環境対策、③ソーシャルディスタンスの対策、④移動の制限対策の4つが含まれる。

まず、個人の対策は、個人が個人の責任で実行できる清潔習慣のことを指しており、マスクや手洗いや手指消毒などのことだ。

次の環境対策というのは、公共の場所やテーブルなどをこまめに消毒したり、人が多く集まる場所での換気をよくしたりするなど、感染症対策として個々人ではなく生活環境を清潔に保つということだ。

三つ目のソーシャルディスタンスの対策とは、感染者(感染の疑いのある者)と非感染者の間で距離(ディスタンス)を作って感染症の拡大を予防することだ。日本でいう「三密」回避はもちろん、隔離や検疫、休校、リモートワーク、保健所が行う接触者追跡の聞き取りも、集会禁止や外出禁止なども含まれる。

四つ目の移動の制限は、個々人に対する制限というよりは、感染症の蔓延している地域を対象として旅行の制限や国境閉鎖などをすることだ。

ロックダウンは想定外の選択肢だったが…

この分類から見れば、いわゆるロックダウンは、ソーシャルディスタンス対策の中でも大規模で厳しいもの、およびロックダウンされた都市や地域との移動制限ということになる。

パンデミック中のタイムズスクエア※写真はイメージです – 写真=iStock.com/Leo Cunha Media

少なくとも先進諸国では、新型コロナまでは、感染症は治療薬やワクチンによって解決済みか、近々解決可能と考えられていた。

つまり、緊急避難の一時的な場つなぎに過ぎなかった非製薬的介入が大規模化・長期化することは想定外だったことになる。

また、新型コロナに対する製薬的介入の切り札であるワクチンの効果は、短期的で何度も接種しなければならず、しかも接種後も感染することがあると分かり始めている。

こうして、非製薬的介入を重視せざるを得ない手詰まりという事情が、ロックダウンの論じられる背景にある。

隔離や検疫とはステージが異なる「人権制限」

ロックダウンでの公益と人権のバランスを考える上で大事なのは、どれだけの人数の人々が、どの程度の不自由や不利益を耐え忍ばなければならないのか、というところだ。

まず、どれだけの人が影響を受けるのかを考えるため、隔離と検疫とロックダウンを比べてみよう。

隔離と検疫は言葉の使い方でブレはあるのだが、症状のある感染者を病院に収容して、ほかの人との接触を断ち切るのが隔離である。

感染しているかどうか正確にわからなくても、感染の疑いのある人を、一定期間(たとえば2週間)区切って、ほかの人との接触を断ち切るのが検疫である。

そして、ロックダウンとは、健康な人も含めてすべての住民を対象として、ほかの人との接触を断ち切ろうとするものである。

つまり、行動制限の対象が、感染者という少数者への措置から始まって、感染の疑いのある者を含むようになり、その地域の全人口まで拡大していくのがロックダウンということになる。

ある種の人々(感染者や疑い者)だけに限定するのではなく、全員に行動制限するという点で、ロックダウンは隔離や検疫とは違うステージにあるといえる。

いいかえれば、住民の誰もが感染疑いというレベルにまで状況が悪化していない限りは正当化できないほどに、思い切った人権制限ということだ。

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