知念氏の謝罪騒動で思い出す映画 – いいんちょ

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最近、下記のような騒動があった。

www.nikkansports.com

この作家先生、ツイッターでフォローしていないのだが、毎日毎日誰かがリツイートやいいね!を押すもんだから、たびたび流れてくる。医師らしく内容は感染症に関しての専門的な知見であることも少なくないのだが、一方で、ずいぶん攻撃的な投稿もチラホラあったように思う。

ただ、そういう自分の肌に合わないものも巷に溢れているのを理解しておくという意味で、ミュートもブロックもしないでいたら、知らぬ間に上記のようなことになっていた。ああ、言わんこっちゃない。

そんな中、昨日、おもしろい指摘をツイッターで見かけた。

知念氏のツイートは役立つ話が多かったけど、フォロワーさんの間でも「ここ1年ほどトンデモ医療を批判してるうちに文体が攻撃的になってきた」という話があったんだよな。
今のツイッタランドに最適化すると攻撃的になってしまう、というのを謝罪ツイートスレッドで見事に書き出してる。 >RT

x.com

ぼくは、知念さんをフォローしていたわけではないし、こうしたツイートの見立てが正しいのかを判断する材料はない。今からさかのぼっていって考察するほどの気力もない。

しかし、この「発信者がオーディエンスの側の欲望に最適化されていってしまう」という現象は、今の時代、ありがちであるし、それなりに注視すべき現象だとは思うのだ。

ここで2016年公開の『アンダーカバー』という映画を紹介したくなった。

ハリー・ポッターを演じたダニエル・ラドクリフが主演した本作には、非常に示唆に富む人物が登場してくる。あ、ちなみにポッター以降のラドクリフさんを知らない人に伝えたいのだけど、彼はその後、頭に角が生えてくる男(『ホーンズ 容疑者と告白の角』)とか、両手にハンドガンを縫い付けられたヘナチョコエンジニア(『ガンズ・アキンボ』)とか、屁をこいて海を進む死体(『スイス・アーミー・マン』)だとか、めちゃくちゃ役の幅が広まっているので、ぜひ確認してほしい。

閑話休題。ここから、『アンダーカバー』の核心部分一歩手前まであらすじを説明するので、まだ観ていない人はご注意。

ラドクリフが演じるネイトはFBIの捜査官。体力がなく、内勤でテロ対策部門のアナリストとして働いていた彼に、ある事件で白羽の矢が立つ。

それは、過激な発言で人気の保守系ネットラジオのパーソナリティ、ダラス・ウルフという男を捜査する、というもの。なんでも、2万人のリスナーを要すそのおっさんは、ラジオ上で放射性物質が盗まれた事件に触れ、何らかの大きな事件が起きることをほのめかしている、という。

ネイトは上司アンジェラの特命を受け、頭を丸めてネオナチになりきり、ネオナチの団体に接触。団体内で信頼を勝ちとっていく中で、ついにウルフ本人と接触することに成功する。そこで、ウルフに資金提供を見返りに、「計画」を教えてくれと持ちかける。

しかし、ウルフは一向に口を割ろうとしない。それどころか、なにかに気づいたようにネイトの資金援助を断ってしまい、彼を厄介払いする。

ここから意外な展開が待っている。

その後、ウルフはなんと自らFBIに出頭し、ネイトという頭のおかしな活動家に絡まれて困っていると訴えるのだ。尋問に立ったアンジェラが、ラジオでの発言をウルフ本人に聞かせて詰問するも、ウルフは「私はエンターテイナーで、金儲けと楽しみのためにラジオをやっている」と突っぱねる。さらに、「政府や人種戦争なんかにまったく興味はない。彼らの欲求を満たし、尊敬を集めているだけ」と、自らの本心を言い切ってしまう。

ネイトがFBIの資金を費やし、さらに自分の身を危険に晒しながらやっと辿り着いた男は、からっぽだった。文字通り、ただの「メディア」(媒体)だったのだ。

もちろん映画はそこで終わりではなく、ウルフとは別の方向で話が展開していくのだが、今回の話との関連では、このウルフという人物が非常に興味深かった。

ここからは映画では描かれていないことだが、ウルフの過去を想像してみる。もしかしたら彼も、ネットラジオを始めた当初は、もっとニュートラルな発言をしていたかもしれない。たまたま少し右っぽい意見を述べたところ、聴衆にやたらウケてしまい、それで味をしめて、以来過激な発言がエスカレートしていったのではないか。そういう可能性だって考えられなくない。

日本でも、保守系まとめブログやまとめサイト、例えば、■hare News Japanだとか、×守速報といったたぐいも、最初に確固たる思想信条があったわけではなく、PVほしさ、拡散してほしさで最適化していっただけなのかもしれない。意外と「中の人」はノンポリの可能性だってある。いやそっちのほうが怖いかもしれないが。

人間、同じツイートでも、何かしらレスポンスがあった方がうれしいものだ。そうした感情自体は、批判されるようなものではない。何かを発信して、それに対して誰かから反応があるのを楽しいと感じてしまう、それが人間という動物だ。だからこそSNSに馬鹿なことだって書くし、こうしてあてどもなくブログを書きつづるのだ。

読み手に、聞き手に、望まれていることを発信すること。その欲望から逃れることは難しい。

ただ、自覚的であるかどうかで、結果は大きく違う。SNSに書いているのではなく、時に、SNSに“書かされる”こともある。そのことに自覚的であるだけで、何倍も「まし」な結果になる気がする。

まあ、何を書いてもほとんどバズったことがないぼくは、今のところ、SNSが書かせてくれたことはないようだが(自虐)。