メタバースで問われる人間の幸福 – fujipon

BLOGOS


メタバースとは何か ネット上の「もう一つの世界」 (光文社新書 1179)

  • 作者:岡嶋 裕史
  • 光文社

Amazon

Kindle版もあります。



メタバースとは何か~ネット上の「もう一つの世界」~ (光文社新書)

  • 作者:岡嶋 裕史
  • 光文社

Amazon

フェイスブック社が社名を「Meta」に変更すると発表した。「Meta」とは「Metaverse=メタバース」の「Meta」である。では「メタバース」とは何か? ITに関するわかりやすい説明に定評のある岡嶋裕史氏(中央大学教授)が、その基礎知識から未来の可能性までを解説。「メタバース」は第四次産業革命に匹敵する変革を我々の日常にもたらすのか? はたまた、ただのバズワードで終わるのか?

 「メタバース」って何?ということで、「基礎知識」を得たい人にとっては、けっこう好みが分かれる新書だと思います。

 メタバースは、まだ辞書には載っていない言葉だが、辞書的な定義を書けば「サイバー空間における仮想世界」になるだろう。「サイバー空間」がわかりにくければ、そこを「インターネット」と読み替えてしまったもいいと思う。

 いまいち、ピンとこない表現である。インターネットそのものが仮想世界だと思われていることもあり、屋上屋を架す印象がある。

 ここで言う「仮想世界」をどう捉えるかで、メタバースの印象は180度違ったものになるだろう。

 まっとうな人の場合この仮想世界を、仮想現実(Virtual Reality:VR)と脳内変換することが多い。VRヘッドセットをかぶって、ポリゴンで形作られた世界に入る。そこが現実じみた空間であれば、確かに仮想の現実である。TVアニメ「ソードアート・オンライン(SAO)」(五感も含めて、完全に仮想現実に没入するタイプのゲームが描かれた作品。

コンテンツを手に取って消費するのではなく、コンテンツの中に入っていく形になる)や、映画「レディ・プレイヤー1」(SAO同様に完全に仮想現実に没入するタイプのゲームを描いた作品。複数のゲームが存在して、そのプラットフォームになるサービスがあるなど、現在言われているメタバースにかなり近しい構成になっている。「現実がしんどいから仮想へ逃避したけど、仮想は仮想で巨大企業が支配してるよね」という通奏低音で作っているあたりがスピルバーグ色)で示された世界である。

 ただし、ファンタジーを含むこれらのイメージは、世界的なスタンダードとは言えなかった。というのも、一般的にはVirtual Realityは現実そっくりを志向するものだからである。日本語の訳としては、ひょっとしたら疑似現実がいいのかもしれない。

 だから、欧米のVR研究者・技術者たちは、VRで何かコンテンツを作ろうとするとき、まずは現実を模すことを考えてきた。VRヘッドセットの中で起きる体験にしても、できるだけ現実に近づけるのである。

 しかし、体験をデジタル化する技術には、もう一つ別の潮流がある。

 冒頭で述べた「ソードアート・オンライン」や「レディ・プレイヤー1」がそうだ。現実に似せる(疑似現実)のではなく、現実とは違うもう一つの別の世界を作ろうという方向性である。

「そんなの当たり前だろう。というか、仮想現実とはそういうものではないのか」と問う向きがあるかもしれない。それはおそらく日本の特殊性が関連している。

 同じ「VR」でも、日本では「現実(現在の世界や実際に体験できること)に似せる」のではなく、「現実とは違う、もうひとつの世界をつくる」ということが志向されやすいのです。

 この新書、著者の「仮想現実への愛情」にあふれているんですよ。

 著者は1972年生まれだそうで、ちょうど僕と同世代、アップル2の『ミステリーハウス』や、マイコンの『ザ・ブラックオニキス』の話が出てきて、「うわ、僕と同じように、パソコンやテレビゲームインターネットの進化と物心ついてからの人生がシンクロしている人だ!」と、なんだか嬉しくなってしまったのです。

 もう大人になってから、テレビゲームやインターネットに「適応」しなければならなかった上の世代や、「スマートフォンがあるのが当たり前の時代を生きている」という、若い世代に比べると、1970年くらいに生まれたわれわれは、コンピュータや仮想現実の進化とともに生きてきただけに、憧れや思い入れが強いのではないか、とも思うんですよ。

 正直なところ、「こんなマニアックな話、光文社新書の読者のほとんどは『何これ?』って、ついてこられないのではないか」と心配もしてしまうのですけど。

 先ほどの引用部に『SOA』や『レディ・プレイヤー1』の話が出てきましたが、これらの作品に触れたことがない、興味も持てない、という人たちにとっては、「著者の『偏愛』が暴走しているだけ」に思われるのではなかろうか。

 そんなに仮想現実がいいのか。

 リアルでうまくやっていたり、リアルの生活に親和性の高い資質を持っている人にはぴんとこない話だとは思うが、すごくいいぞ。

 私はリアルで生きるのが苦手な人間である。人間関係に気ばかり使う割には、好かれもせず、仕事の生産性も悪い。そもそも仕事に行く以前の話で、朝起きるのがうまくないし、満員電車に乗る才能もない。人生が下手くそなのだ。

 気分転換に食事に行ったり、旅行に行ったりするといいよとアドバイスをしてもらっても、人の集まるところではリラックスできないし、旅では道を間違う。

 だから、気分転換がしたいときは、いつもゲームをしている。ゲームメーカーの思惑通り、ゲームの目的(謎を解いたり、魔王を倒したり)に邁進することもあるが、そこで時間を過ごすだけのこともある。

 最近のお気に入りは(古いコンテンツだけど)『ニーア オートマタ(NieR:Automata)」だ。この世界では人類は滅んでいて、その足跡は廃墟と化し、今はアンドロイドと機械生命体しかいない。抜群である。リアルで汚染された心が、高圧洗浄で純白を取り戻すようだ。ニーア オートマタは終わりがあるタイプのコンテンツだが、敢えて終わらせずに散歩ばかりしている。

タイトルとURLをコピーしました