まだ見ぬご先祖さまへ
ぼくの名字はめずらしい。
いままでに家族以外で三土さんにお会いしたことは一度もない。ウェブで検索しても、数人の三土さんがひっかかるだけだ。
いったい、このめずらしい姓を持つご先祖さまはどこからやってきたんだろう。そしてそもそも「三土」という姓は何に由来するのか。
お盆には先祖の霊が帰るともいうし、たまに自分のご先祖さまのことを考えてみるのも悪くなさそうだ。
自分の姓のルーツを遡ってみました。
※2005年8月に掲載された記事を、AIにより画像を拡大して加筆修正のうえ再掲載しました。
- まずは両親に話をきく
- 親のこと、知りませんでした。
- そしておじいさんのこと
- 記憶で分かることはそこまで
- さらに戸籍をしらべてゆく
- かんたんな家系図ができた
- 三土姓の由来が知りたい
- 文献をあたってみる
- 「三土」の項目があった
- 鳥取県の三土村と関係がありそうだ
- 鳥取県日野郡日野町の三土に行ってみよう
- 宿をさがす
- 助かりました
- 今日はもう寝ます
- 朝から大雨でした
- まずは図書館へ
- 「日野郡史」という本を見せていただいた
- 三土の地名の由来についての記述を発見
- いよいよ三土へ
- 歩きで三土へ向かいます
- お墓を拝見
- ついに三土の集落に着いた
- 生田さんという方にお話をうかがう
- 東京にもどって、蛟網神社を調べる
- 蛟もう神社にやってきました
- 誰もいませんでした
- 歴史民族資料館の方におききする
- はっきりしたことは分かりませんでした。
まずは両親に話をきく
ぼくに一番ちかいご先祖さまは、いうまでもなく両親だ。そして三土姓は父親の姓になる。
父親は四国の香川県坂出市の出身で、昔は香川県には三土という名前の人が大勢いたらしい。
三土姓は香川県の発祥なんだろうか。
親のこと、知りませんでした。
さらにおじいさんの話を聞かせてもらった。
ただし、おじいさんの話をしていると、自然と若い頃の父親自身の話にも触れることになる。父親は小学生のころに戦時中の満州に渡り、終戦とともに日本へ戻ってきたらしい。
ふだんこうやって話をきくことなんてあまりないので、話を聞いていると、じつは父親や祖父のことを全然知らなかったということに気づく。
そしておじいさんのこと
おじいさんは忠蔵さんという人で、40歳のころに家族を連れて満州にわたり、一旗揚げようとしたらしい。
ただし、42歳のときに兵隊としてかりだされ、そのまま戦地で亡くなった。ぼくの父親はそのとき小学6年生だったとのこと。
その後父親はおばあさんに育ててもらいながら大学に入り、東京で母親と知り合ったらしい。そのあたりのいきさつはあまり想像したくないけれど、訊けばまあいろいろあるんでしょう。
記憶で分かることはそこまで
忠蔵のお父さんにあたる人は誰かときいたところ、知らないとのこと。えー。
自分のおじいさんの名前くらい知ってようよ、と言いたかったけれど、それはまさにさっきまでのぼくのことだったので、何も言えなかった。
父子そろって刹那的に過ぎるような気がする。
さらに戸籍をしらべてゆく
忠蔵さんより前の人について調べるためには、戸籍をみていく必要がある。
お役所に請求すると、除籍謄本(亡くなった人の戸籍の資料)というものをもらうことができるらしい、ということは調べておいたのだけど、きいてみるとだいぶ前に母親がすでに坂出市役所に請求ずみらしい。
引き出しの奥の方からそのときの資料をひっぱりだしてきてくれた。ありがたいことです。
叔父と伯父って違うんだー、といった一般常識をはじめて学びながら、すこしつづ戸籍を読んでいく。
だいぶ時間をかけて、ようやく5代前までの三土の家系図をつくることができた。
かんたんな家系図ができた
戸籍から辿ることの出来たもっとも古いご先祖さまは、三土助三郎さんという人だった。
生年月日は書かれていないけれど、息子の信太郎さんが1847年生まれらしいので、だいたい1820年くらいだろうか。
住所は香川県綾歌郡とあり、調べてみるといまの香川県坂出市のあたりそのものだ。三土さんは1800年頃からずっと坂出に住んでいたらしい。
三土姓の由来が知りたい
助三郎さんより前の三土さんはどこにいたんだろう。最初から坂出に住んでいたのか。
そしてもう一つ。そもそも三土ってどんな意味なんだ。
これが田中さんなら、田んぼの真ん中に住んでいたのかな、などと、あてずっぽうでもなんとなく推測することはできる。そこへいくと三土は三つの土だ。何のことやらさっぱり分からない。
調べてみると、あらゆる姓名に関する辞典のような本が国会図書館にあるらしい。行って調べてみることにしました。
文献をあたってみる
国立国会図書館のウェブサイトによると、人の姓や家系について調べたい人は、まず「姓氏家系大辞典」という本を見るべきらしい。
国会図書館というと、ほとんどの本が地下にあって、閲覧不可でコピーのみ可というイメージがあったのだけど、今回必要になる文献はほとんどが「開架」、つまり普通に読むことができる図書室に置いてあるようだ。しめしめ。
「三土」の項目があった
さっそく角川書店「姓氏家系大辞典」を探してみると、第三巻に「三土」の項目があった。
三土 ミツチ
地名を負ひしなるべし。常陸に蛟網神社あり。此の氏は中国の名族にして、藝藩通志に見え、又現代、讃岐の人三土忠造は政治家として令名高し。
(出典:角川書店「姓氏家系大辞典」第三巻。太田亮著。)
箇条書きにすると、
- この姓は地名に由来する
- 茨城県の蛟網神社と関係がある
- 中国地方で名が高かった
ということになりそうだ。
2番目のなんとか神社については分からないけれど、1番目と3番目についてはもしかしてと思うところがある。
じつは以前から、ウェブ上を「三土」で検索すると、「鳥取県日野郡日野町三土」という地名がひっかかることに気がついていた。
→地図
鳥取県といえばまちがいなく中国地方だ。何か関係があるんじゃないだろうか。
鳥取県の三土村と関係がありそうだ
同じ図書室に、全国の地名について書かれた本があった。鳥取県日野郡日野町三土について調べてみると、つぎのように書かれていた。
三土村
(一部抜粋)文化13年(1816)当村の次兵衛の妻と娘が四国巡礼に出たが、 阿波国で妻が病死し、娘は幼少で保護されたため、親類が受取りに出かけるようにと、鳥取藩大坂留守居役から伝達があった(在方諸事控)。
(出典:平凡社「日本歴史地名体系」32 鳥取県の地名)
こちらも箇条書きにすると、
- 1816年に三土村の人が四国に行き
- 現在の徳島県で一人が亡くなり、一人が保護された
- 三土村の親類が引き取りにいった
ということになるのだろう。
1816年というのは、さっきの三土助三郎さんの生まれた(と勝手に推測する)1820年ごろと年代が近い。もしかして何か関係があるんじゃないのかと思いたくなる。
鳥取県日野郡日野町の三土に行ってみよう
もうこうなったら直接その場所に行くしかない。
思い立ったが吉日、新幹線と特急を乗りついで鳥取まで行ってしまった。
宿をさがす
来てしまったのはいいけど、宿のことをぜんぜん考えていなかった。駅のまわりを見渡すかぎり、タクシーもとまっていないし、そもそも町の明かりが見えない。
さいわい、駅前に設置された案内図に一件だけ旅館を見つけることができた。近くの電話ボックスで電話番号を調べ、連絡を取る。
助かりました
電話口の女性に、いまから泊めさせて頂けないでしょうかとお伝えしたところ、だいぶ驚いた声で「今日ですか」とたずねられた。
これはだめかなと思っていたけれど、しばらくして「大丈夫ですよ」とのお返事が。なにか逡巡していらっしゃるような間があったけど、なにしろこちらには他に選択肢がない。朝勝館に投宿させて頂くことした。
着いてみると、風情のあるとても素敵な宿だった。女将さんも親切な方で、本当はお盆で休みだったのだけど、親戚が泊まりに来ているので、ついでだからあなたも泊めてあげることにしたのです、とのことだった。
今日はもう寝ます
お風呂に入ってなんだかすっかり幸せな気分になってしまった。今日はこのままもう寝て、明日は朝から三土村について調べることにしよう。
朝から大雨でした
起きてみると外は大雨だった。
傘をさしていくのはいやだなあと思ったけど、さすがにもう一泊するような時間もお金もない。
女将さんに案内されて1階の食堂へ。着いてみるとテレビのニュースが大雨洪水警報を伝えている。女将さんによると、このあたりでこんなに雨が降るのは最近めずらしいらしい。何も今日でなくてもいいのにと思ってしまう。
ご飯を食べ終えて、自室に戻る。
しばらくぼーっとしていると、急に小雨になってきた。この降りかたはなんだか夕立みたいだ。朝だけど。
何にしろ、これなら出かけられる。
女将さんや、留年のかかった大学生に挨拶をして出発しようとすると、女将さんがかけよってきてビニール傘を貸してくださった。
もうほとんど止んでいたけど、ありがたく使わせて頂きました。
まずは図書館へ
ここでいきなり三土村の場所まで行ってしまってもいいのだけど、今日はまだまだ時間がある。
地元の風土記などがあれば、何かの参考になるはずだ。まずは図書館で資料を調べてみよう。
「日野郡史」という本を見せていただいた
図書館の司書の方に事情を説明したところ、鍵のかかった書庫に置かれていた「日野郡史」という本を見せて頂くことができた。
大正時代にまとめられたもので、このあたりの歴史についてかなり詳しくかかれているらしい。
三土の地名の由来についての記述を発見
調べてみると、三土村は少なくとも1683年からこのあたりにあったようだ。
そして「村名の変遷」という章に三土の地名の由来に関する考察がかかれていた。
三土
昔蛟龍の出でしか又水清き所なれば水神を祀りしかにより此村名の起りしならむ
(出典:名著出版「日野郡史」 )
まとめると、
- 蛟龍というものが出没していたか、
- 水神を祀っていたか何かで、
- 三土という地名になったのだろうか
ということだろう。だいぶ弱気な書き方だ。
蛟龍の蛟という字は、国会図書館で見かけた蛟網神社と同じ字だ。何と読むのか分からないけど、やはり関係がありそうだ。
ただし、意味がよく分からない。龍や水神がどうして三土に結びつくんだろう。
いよいよ三土へ
「蛟龍」に関しては宿題にしておいて、そろそろ三土に向かうことにしよう。
図書館の方に聞いてみると、近くまでバスが出ているらしい。数時間おきにしか運行していないようだけど、ちょうど次の便が近い。それに乗って行くことにした。
根雨駅前から三土へは、南東の方角へ山に入っていくような形になる。
→地図
しばらくすると、この先を左に行くと三土、という標識が現れた。たしかにここに三土がある、という気がして、妙に嬉しくなる。
歩きで三土へ向かいます
最寄のバス停でバスを降りる。
ここから三土まではおよそ2kmほどある。普段ならそんなに歩くのはだるいなあと思うけれども、今日は違う。なんだか本当の里帰りのよう気がして、わくわくしてしまう。
もちろん、初めて来る場所なのだけど。
お墓を拝見
途中でいくつかの墓地を見かけた。
この土地に古くから三土姓の人が住んでいれば三土家の墓もいくつか残っているはずだけど、予想に反して一つも見かけることができなかった。
ここにはおもに長谷川さん、生田さんという姓の方が住んでいらっしゃるようだ。
ついに三土の集落に着いた
この先を進んでも山しかないんじゃなかろうか、という道を進んでいると、道を曲がった左手に集落が見えてきた。ここが探していた三土にちがいない。
さっそく村の人にお話を伺おうとおもったけど、あたりには人ひとり見当たらない。みなさん家の中にいらっしゃるんだろうか。
生田さんという方にお話をうかがう
ひとりだけ、庭で何かの作業をしていらっしゃる方をみかけた。声をおかけして、お話をうかがう。
―東京から来たものですが、このあたりに三土さんという方は住んでいらっしゃいますか?
「いや、住んでないねえ。」
―それは最近ですか、それともずっと昔から?
「昔からだね。すくなくとも50年くらいは、三土っていう名前の人は聞いたこともないよ。」
―なるほど。では、三土という地名の由来について、何かご存知ですか?
「いやー、知らないねえ。ごめんね。」
というわけで、三土さんは以前からここには住んでいないようだ。この場所での調査はこれまでにして、引き返すことにしよう。
東京にもどって、蛟網神社を調べる
大きな手がかりは見つからなかったけれど、奇妙な里帰りを実現することができて満足だ。
図書館で読んだ日野郡史の内容はヒントになるかもしれない。蛟龍、あるいは蛟網神社について調べてみることにしよう。
蛟もう神社にやってきました
しらべたところ、くだんの神社は茨城県の利根町というところにあるらしい。
そして、蛟は「みずち」と読み、ヘビか龍のようなものだということも分かった。たしかに読みは三土に似ている。そして蛟網神社の網の字は、正確には虫へんらしい。常用漢字にはなさそうだ。
というわけで、またまた行き当たりばったりで蛟もう神社にやってきてしまいました。
誰もいませんでした
なんというか、実は予想どおりなんだけど、どなたもいらっしゃいませんでした。
事前に電話番号を調べて何度かお電話をしてみたのだけど、一度もお出にならないので、たぶん普段は空けてらっしゃるんだろうとは思っておりましたが。ちょっと残念。
歴史民族資料館の方におききする
利根町の歴史民族資料館に、蛟もう神社についてお詳しい方がいらっしゃるとのこと。お電話したところ、次のようなお話を教えていただくことができた。
- 蛟とは、角のない龍のことのようだ。
- この神社では、二つの神様を祀っている。ひとつは水の神「ミツハノメノミコト」、もうひとつは土の神「ハニヤマヒメノミコト」。
- そこで、水と土だから「みずち」神社と呼ばれるようになったという説もあり、はっきりしない。
日野郡史の中で水神と書かれていたのはこのことだったのかもしれない。
はっきりしたことは分かりませんでした。
残念ながら、三土姓の由来と発祥について、はっきりしたことは分からなかった。ただし、今回分かったことを総合すると、証拠はうすいけれど、個人的にはこういうことがいえるんじゃないかと思う。
・三土村では昔からだれも三土とは名乗っていなかった。
・1800年ごろに三土村の人が四国にわたり、三土を名乗り始めた。
・三土姓の由来は、蛟または水土。
というわけで今回は、行き当たりばったりでものを調査すると大変だ、ということが分かったのでした……。