「信教の自由」なき人権は完全に非ず

アゴラ 言論プラットフォーム

「世界人権宣言」が1948年、国連総会で採択されて今年12月で75周年を迎える。「世界人権宣言」は、人権に関する最初の包括的な国際文書であり、その普遍的な原則と基準は国際社会において広く受け入れられてきた。

「楽園を追放されるアダムとエバ」フランスの画家ジェームズ・ティソの画
Wikipediaより

同宣言は、人権と基本的な自由を保護するための普遍的な原則と基準を確立することを目的としている。生命、自由、尊厳の権利、公平な裁判、思想・良心の自由、教育の権利、労働の権利、社会保障、文化的な参加の権利などが含まれる。宣言はまた、人種、性別、言語、宗教、政治的意見などに基づく差別の禁止を主張している。

人間の尊厳と平等な価値を認める考え方は古代から存在していたが、近代的な「人権」の概念は17世紀から18世紀にかけての啓蒙時代に発展した。フランスの啓蒙思想家であるヴォルテールやルソー、イギリスの哲学者であるジョン・ロックなどが人権の重要性を主張し、それが後の人権宣言や法律の基礎となった。

一方、「宗教の自由」も古代から存在していたが、具体的な法的保護や国際的な合意としての「宗教の自由」については、20世紀の人権の国際的な枠組みの発展の中で確立されていった。1948年に国連総会が採択した「世界人権宣言」において、「宗教の自由」が人権として明示的に保障され、さまざまな国際的な人権法文書や条約においても「宗教の自由」が重要なテーマとして取り上げられるようになった。

ただし、「人権」の概念が中世の固陋な宗教社会、教会支配社会に対抗する立場で発展したこともあって、「宗教の自由」という概念は「人権」の対立概念のように受け取られる傾向が強い。

まとめると、「人権」は近代的な概念として17世紀から18世紀に発展し、「宗教の自由」は古代から存在していた概念だが、国際的な枠組み(例・世界人権宣言)において20世紀以降、重要な位置を占めるようになってきたわけだ。

ところで、ドイツ司教協議会とドイツ福音主義教会(EKD)は世界的な「宗教の自由」に関する第3回の共同報告書を発表した。EKDのペトラ・ボッセ=フーバー司教によると、同報告書は「宗教の自由」を例に挙げて普遍的な人権教育を推進するためのものという。

「普遍的な人権に対するキリスト教の視点」と題されたこの182ページの報告書は、異なる国々(ドイツも含む)における「宗教の自由」の状況を具体的に示している。同時に、「宗教の自由」は他の人権と対立させてはならず、同等な普遍的な人権として存在することを明らかにしている。同報告書の共同執筆者のハイナー・ビーレフェルト氏は、「宗教の自由を認識しなければ、人権は完全に人間らしくなり得ない」と述べている。非常に啓蒙的な表現だ。

「人権」といえば、生命、自由、尊厳の権利、「言論の自由」が頭にすぐ浮かぶが、「『宗教の自由』なくして人権は完全となり得ない」「宗教の自由は社会の中心に位置すべきだ」といったキリスト教会関係者の主張はキリスト教文化圏に属さない日本人にとって少々違和感を覚えるかもしれない。

参考までに、人類の文明史の発展をヘレニズムとヘブライズムに分類して分析する見方がある。アダム家庭でのカイン(長子)のアベル(次子)殺害以後、歴史はセツ(3子)の血統とカインの血統に分かれ、世界はヘブライズム(神主義)とヘレニズム(人本主義)の2大潮流を形成し、ヘレニズムは最終的には神を否定する無神論世界観を構築し、共産主義となって出現してきた。

だから、共産主義はカインの系譜から生まれた思想であり、その根底には憎しみ、恨みが溢れている。労働者に資本家の搾取を訴え、その奪回を唆す。神を否定し、暴力革命も辞さない。そのカインの思想、共産主義を如何にソフトランディングさせるかが人類の課題となる。

一方、神の信仰を有してきた欧米諸国は神を失い、社会は世俗化し、肝心のキリスト教会は聖職者の未成年者への性的虐待事件の多発などでその土台が震撼、生きた神を証できなくなった宗教は生命力を失ってきている。

ローマ・カトリック教会の前教皇ベネディクト16世は2011年、「若者たちの間にニヒリズムが広がっている」と指摘していたことを思い出す。欧州社会では無神論と有神論の世界観の対立、不可知論の台頭の時代は過ぎ、全てに価値を見いだせないニヒリズムが若者たちを捉えていくという警鐘だ。簡単にいえば、価値喪失の社会が生まれてくるというのだ(「“ニヒリズム”の台頭」2011年11月9日参考)。

要するに、ヘレニズムもヘブライズムもここにきて発展の原動力を失ってきたのだ。人本主義と神主義を止揚する新しい世界観が求められてきている。換言すれば、理性と信仰の調和だ。「世界人権宣言」75周年を迎えた今日、ヘブライズムの復興(リバイバル)を叫ぶ新しい宗教が現れなければならない、という結論になるわけだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年7月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

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