ざくざくしたサブレにキャラメルでコーティングしたナッツを乗せて焼くお菓子、フロランタン。
好んで積極的に買うことがない限り、あまり食べる機会の多いタイプのお菓子ではないように思うけれどどうか。
そのフロランタンを好きな分だけ割って食べられる「かち割り フロランタン」という商品を見つけた。
思いもよらない自由が降ってわいたものだ。
フロランタンをかち割りたいと思ったことの圧倒的無さ
これがその「かち割り フロランタン」である。
丸井スズキという、ど正面から松尾スズキみたいな名前のお菓子の商社が企画している商品で、高級スーパーの紀ノ国屋で見つけた。ネットでも売られて人気のようだ。
びっくりした。
フロランタンを、かち割って食べたいと思ったことが、ただの一度もなかったからだ。思いつかない種類の自由を急激に与えられ、身に余る光栄にうろたえる。
消費社会に生きるということは「願ってもいない夢が叶う」ことの連続だと思う。
メーカーはしのぎを削って消費者の購買意欲を喚起する。
欲望とはおのずからわき上がるものではなく、対外から鼓舞され影響的に作り出されるのだとつねづね思わされる。
冒頭から早口になってしまった。「かち割り フロランタン」が思いもよらず魅力的でついあらぶってしまったのだ。
いったん、座って水を飲もう。
割れ系お菓子の魅力
紀ノ国屋にはたくさんの、セレクトされた訴求の強いお菓子が並んでいた。
かち割りに通じるものが他にもないかと探すと、「割れチョコ」と「割れかりんとう」がある。
お菓子の世界には「割れ」というジャンルがあるのだ。
訳あり品として世に出したB級品の割れたおせんべいの詰め合わせに人気があつまり、今やわざわざ欠けのない商品も割って売っている……みたいな話はよく聞く。
割れ商品に人気が出るの、よくわかる。なんだか魅力があるのだ。
B級品として少し安いから、というだけではない、がさっとたくさん詰まった雑多な様子には正規品にはない別の魅力がある。
割れチョコはもはや割れた状態で市民権を得て久しい。
割れチョコだけを扱う専門店があったり、この「国産甘夏みかんのピールがごろごろ入った割れチョコ」のように、ふつうにパッケージの商品としてたくさんの種類が売られている。
割れているから食べていないことになる
もうずいぶん前だが、友人の家で持ち寄りで飲み会をした。ひととおり食事が終わってあとはだらだらと飲んでしゃべってという頃合いに参加者のひとりが残っていたパンを小さく切りはじめた。
どうしたの? と聞くと、小さく切ってあると食べやすいでしょう。と言うのだ。
みんなもう満腹である。大きな状態のパンにはちょっと手がのびない。でも小さく切ってあればちょこちょこつまんで食べられる。確かにそうだ。
大きなパンひとつ食べれば「食べきった!」と満足するが、小さく少しずつ食べると充足に気づかずたくさん食べられてしまう。
割れている状態で食べると、食べたことにならないのだ。状態として魔法なのだと思う。
割れチョコも、割れかりんとうも、気づけばどんどん食べてしまっていた。魅力的だけどこわい、それが割り系菓子の世界である。
昨日には想像できない自分の姿
さて、本日の主役であるところのかち割りフロランタンに戻ろう。
かりんとうやチョコと違い、この商品はもともと割れていない大きな塊が入っていて、自分でかち割るところに新しい興奮がある。
好きなだけ割って食べられるのだ。
板チョコには慣れているけれど、フロランタンを割って食べたことはなかった。というかそもそもフロランタンをそれほど食べたことがない。
まだ食べ慣れないフロランタンを、いきなり好きなだけ食べられる。
思いもしない自由が手渡され、自由という状態の多様さに感じ入る。
サブレ部分はサブレらしいザシュザシュした食感で甘すぎない。ちょっとグラノーラーバーみたいに感じるくらい、素朴といっていい甘さで、でもたっぷりバターが使ってある食べこたえがある。
結局どんどん小さなパンみたいにちぎって食べ続けてしまった。
フロランタンを自由なサイズで食べる、昨日には絶対想像できなかった今日という未来がきた。
その新奇と一緒に味わった。