『英国王室と日本人:華麗なるロイヤルファミリーの物語』(小学館・篠塚隆氏と共著)では、上皇陛下のエリザベス女王戴冠式参列に続いて、昭和天皇と香淳皇后の英国など欧州歴訪の経緯も紹介している。
皇太子時代の欧州歴訪を最良の思い出とされる昭和天皇にとって、皇后とともにヨーロッパを訪れることは宿願であっただが、皇太子訪英でも戦争の傷跡はなお大きいことが明らかになっていた。
しかし、1970年の大阪万博を機に来日した、ベルギーのアルベール皇太弟(のちの国王アルベール二世)が事情を聞いて、それなら、ベルギーから招待を出し、それを梃子にほかの国に働きかけてはどうかと提案し、事態は動き出した。
各国訪問については、同書を参照頂きたいが、全般的には各国で歓迎されたが、英国とオランダでは、抗議行動に遭った。英国では、天皇が植樹した王立植物園の杉の木が翌日には伐り倒された。
英国の歓迎晩さん会でエリザベス女王は「わたしどもは過去が存在しなかったと偽ることはできません。わたくしどもは貴我両国民間の関係が常に平和であり友好的であったとは偽り申すことはできません。しかし、正にこの経験ゆえに、わたしどもは二度と同じことが起きてはならないと決意を固くするものであります」と述べたのに対して、天皇は皇太子時代の英国訪問の思い出を語り、今後の両国関係の進展を希望すると述べるにとどまったので、それに批判的な論調もあった。
また、女王の夫であるフィリップ殿下の叔父であり父親代わりともいえるルイス・マウントバッテンは、ビルマで日本と戦ったことを根に持ち、晩餐会への出席を拒否し、しぶしぶ懇談には応じたものの、のちに遺言で日本の皇室メンバーの葬儀への出席を拒否した。
マウントバッテン家は、もともとドイツのバッテンベルク家で英国に帰化して英語風にあらためたものだ。
バッテンベルク家は、もともとヘッセン大公家の一員だったが、「貴賤婚」(モーガナティックマリッジ)といわれる身分違いの結婚で家名を継げず、別家を起こした。
ヘッセン大公ルートウィッヒ2世とその妃ビルヘルミーネの子供のうち、四男のアレクサンダーは、父母が別居中に生まれ、公妃と愛人アウグスト・ルートビウィヒ・フォン・スナルクラン・ド・グランシー男爵との不義の子である。
アレクサンダーの同父妹であるマリアは、ロシアのアレクサンドル2世(ニコライ二世の祖父)と結婚して家格を上げたが、アレクサンダーはポーランド人のユリア・ハウケ伯爵令嬢との貴賤婚を強行した。ユリアはヘッセンの家名を名乗れず、別家バッテンベルク女伯爵とされ子供たちもそれを姓とした。
長男のルードウィッヒは、英国軍人となって帰化し、ミルフォード=ヘイヴン侯ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンとなった。その娘がギリシャ王子アンドレアスと結婚して生んだのがフィリップ殿下である。
次男のマウントバッテン・オブ・ビルマ伯爵ルイスは、最後の独立前と独立直後のインド総督をつとめたが、『ザ・クラウン』では夫人がネルー首相の愛人になっていたというエピソードが紹介されていた。
父と疎遠だったフィリップにとっては父親がわりでチャールズ国王にとっても信頼する祖父みたいなものだった。
もっとも、チャールズに女遊びを勧め、一方で妃は世間知らずの処女でなければならないと指導し、その助言にしたがって、ルイスがIRA(アイルランド共和国軍)の分派によってヨットで爆殺されたあと語り合ったのがダイアナだった。
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