日本の宗教2000年の歴史を5分で理解

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新刊『日本の政治「解体新書」: 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書)では、創価学会・公明党と旧統一教会にそれぞれ一章を当てているが、それらを理解する前提として日本宗教史のようなことも書いている。

それを短縮版にして提供したい。

神道は、動植物や自然地形、自然現象にも神の存在を見るアニミズムだ。道教など世界各地にあるものと根本では変わらなく、大陸からの影響も受けているのだろう。

仏教は、絶対的な存在(神)への服従を説くのでなく、生活実践上の教えが中心である。物部氏らが仏教を排斥したのは、外来の神だからであって、教義上の問題ではなかった。

中国では道教と仏教は排斥し合わずに併存した。一方、日本では「日本古来の神々は、仏教の仏菩薩が我が国の衆生を救うために出現した姿」だという「本地垂迹説」を生んだ。

日本では「神仏混交」「神仏習合」が一般化したが、日蓮宗と浄土真宗にかなり、否定的な立場となる。また、日蓮宗は他の宗派に対して批判的な姿勢を明確にしている。

日本人の多くが神社で初詣、キリスト教の結婚式、仏教で葬式をする。キリスト教も、その世界観などとは関係なく、生活実践上の規範と受け取ってのことであろう。

日本に仏教が伝来したのは、538年に百済の聖明王が、欽明天皇に金銅の仏像や経典を贈ったときとされている。その後、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の3人が政権を握るに際して、御利益があったとして四天王寺や飛鳥寺が創立された。これら寺院は、建築や仏像仏具づくりなど技術も含め、大陸文明の受け入れの総合センターとして役立った。

奈良時代の仏教は、飢餓や疫病、戦乱をなくし、国家の安定を図る国家鎮護だったが、民衆を教化した行基や悲田院を設立した光明皇后などは慈善事業には熱心だった。しかし、寺院や僧侶への保護の結果、僧侶が増え過ぎ、平城京が寺院に占拠されてしまった。

そこで、平安時代には、唐で流行していた天台宗や真言宗が、最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)によって持ち帰えられて盛んになった。

最澄は最も大乗仏教的な経典である法華経の優位性を主張し、修行する人自身の成仏(仏の境地になること)から発展し「万人の成仏」が目指したが、死後の幸福を期待する浄土思想や、瞑想から真理へ近づく「禅」の考え方、「密教」的な思想も受け入れていく。

「密教」というのは、その教えが深遠で、その境地に達した者しか窺えないことを意味する。秘密の教義と儀礼を師資相承で伝持し、加持祈祷で現実を変えることができるとすることが、人気を博した。

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鎌倉新仏教は、釈迦入滅後1500年(西暦1052年だと信じられていた)を過ぎて「末法」の時代に入ったという意識の下、戦乱や飢饉のもたらす生き地獄から個人の精神を救済できるような宗教が求められていた。しかも、それは社寺の建立や寄進など費用がかかったり、難しい勉学を必要としたりする既存仏教とは違うものでなくてはならなかったのである。

浄土信仰は平安時代には、念仏を唱えることにより安らかに死を迎えられるというホスピスのような位置付けもあったが、末法の時代に入って信奉者が増えていく。法然は、さまざまな複雑な修行などしなくても、念仏さえ唱えれば凡夫でも極楽へ行けるという説を唱え、親鸞は「悪人」であっても救われるとしたのが目新しかった。

禅宗は宋の時代の新しい文化をまとめて採り入れる宗教として重宝される。臨済宗は禅問答の回答を見出すような知的な思考を重んじたが、曹洞宗では知的な学習はあまり問わないスパルタ的な修行や質素さ、土俗信仰、祈祷、そして葬式などを大事にした。

日蓮宗を興した日蓮は安房の生まれで、比叡山で学んだ。日蓮は、天台宗が法華経を究極の教典としながら、浄土・密教・禅なども重視することは素朴に考えておかしいと考えた。そこで鎌倉時代の時代的雰囲気を採り入れて、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることで現世において救われるとしたのである。

奈良仏教や平安仏教が兼学を認めていたのに対して、鎌倉仏教は兼学には否定的だが、とくに日蓮は「仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と、他宗を厳しく批判した。

ただし、浄土真宗ほどではないが、日蓮宗も本当に勢力が拡大したのは戦国時代のことだ。戦乱の中で京都の町衆に支持されたのである。西陣など京都の古い町を歩くと、驚くほど日蓮宗の寺院が多い。商工業者には、来世よりも現世での救済を目指すほうが受けがよかったし、現代の仏教系新興宗教のほとんどが日蓮宗系であることも同じ理由から説明できる。

一言でいえば、密教は貴族に、禅宗は武士に、浄土系は農民に、日蓮系は商工業者など都市住民に支持されやすいという性格を持っている。

江戸時代には、幕府によって「檀家制度」ができて信者は固定化され、布教の自由もなくなった。そこで、各宗派は布教でなく、与えられた檀家を深く取り込むことに努力を傾注した。頻繁に「〇回忌」といった行事をするように誘導したのがその典型である。

明治になって神道のほうから仏教との関係を絶ったが、互いに強く排除しなかったし、キリスト教が自由化されても、多くのキリスト教徒は神社に詣でたり仏教の墓に入ったりすることを拒否しなかった。キリスト教信者は、人口の1%を超えたことはない。

一方、幕末以降に結成された新宗教は、葬式仏教化した既成仏教が失った宗教らしい性格を取り戻し、崇拝の対象となる教祖様も存在する。天理教(江戸末期)、黒住教(1814年)、金光教(1859年)など神道系の諸宗教があり、明治中頃に大本教、昭和初期には生長の家が生まれた。いずれも関西や瀬戸内などの社会的状況が生んだ宗教だといえよう。

日蓮宗系の霊友会は1920年に創立され、法華経の先祖供養を重視し、先祖の成仏が子孫の幸福に深く関わっているという考えで、そこから立正佼成会などいくつもの団体が分派している。創価学会(1930年)は日蓮正宗の信徒団体から発展した。

幸福の科学、阿含宗、エホバの証人など1970年以降に成長した「新宗教」はメディア戦略で成功し、インテリ層に強いが、生活のリアルな苦悩より空しさや生きがいの欠如に対する回答を求める。86年に設立された幸福の科学が、イエス・キリストや孔子などの偉人・宗教家が教祖の口を通じて語ると称しているのは、その象徴といえよう。

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