2020年8月10日の記事を編集して再掲載しています。
死なないようになれたなら。
「死」という問題を解決しようと取り組んでいる人々がいます。彼ら、彼女らが成功した暁には、900歳になった僕がふとこの文章を読みなおし、いかに人生の初めの100年間を無駄にしたかを懐かしく思い出すかもしれません、と米GizmodoのDaniel Kolitz記者は書いています。
しかし、いつか解決されたとしても、それまでに何万、何億もの人々が亡くなることに変わりはありません。病気で亡くなる人もいれば、不慮の事故で亡くなる人もいるでしょう。なかには俗に言う「老衰」によって亡くなる人もいます。
縁側でひなたぼっこをしているうちに、いつの間にか息を引き取っていたーーこんなふうに、「老衰で亡くなる」のは他の死に方と比べてずいぶん穏やかなイメージがあります。
でも本当のところ、老いて死ぬってどういう意味なんでしょうか?
あらゆる疑問に専門家が答えてくれる「Giz Asks」シリーズ。今回は、「老衰で亡くなる」とはどういう意味なのか、4名に聞いてみました。
体が摩耗し、病気が体の営みを妨げ、死に至る
Elizabeth Dzeng(カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部助教)
「老衰で亡くなる」とは私たちのまわりでよく使われている表現です。ところが、実際「老衰」で死ぬ人はひとりもいません。必ず先行している病、または新しい病がほかにあって、それが死因となります。死亡診断書に「老衰」と書かれることはまずないでしょう。このように、死因は別にあって、なにかの感染症、心臓発作やがんなどの基礎疾患による心不全のほうが可能性が高いのです。
たとえば肺に血栓が生じたら、脳と体に十分な酸素を送れない状態となり、結果的に心不全を引き起こしますね。この場合、その人がまだ若かろうが年老いていようが関係ありません。病気や、病気が引き起こした諸症状が体の営みを妨げたために死に至るのです。
しかし、同じ病気でも高齢者には異なる症状をもたらすこともあります。年を重ねるごとに私たちの体は摩耗し、損傷していきます。ですから、若い頃と同じようには病と闘えなくなってくるのです。もちろん心臓発作や肺血栓塞栓症で若い人も同じように病死することはありえますし、実際に起こることではあります。ただ、高齢者だと病気に対する体の反応が異なってくるのです。
次に肺炎を例にとってみましょう。老年の患者の場合、感染時に通常見られる初期症状が見られないことがあります。 もしその患者が糖尿病を患っている場合は高血糖の症状が出ることもありますし、もし認知症だったら心理状態が不安定になったり、普段できていたことが突然できなくなってしまうこともあります。老年の患者にこのような症状が出ても、その原因となっている病理を直ちに突き止めることは困難です。
巷には「眠りながら死にたい」と願う人がいますが、これは特定の病理に限定できない現象です。眠りながら息を引き取った人は、たまたま起きている間ではなく寝ている間にがんや感染症の症状が悪化しただけかもしれません。
もうひとつ大切なことは、末期がんや鬱血性心不全などの極めて深刻な病状を抱えている人たちは、より「自然な死」を選び取ることもあります。病院で積極的な治療を受けるよりは、緩和ケアを選んで苦しみを和らげる道を選ぶこともあります。
ひどく苦しみながら死ぬ、それが自然な死
Jessica Humphreys(カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部助教。専門は緩和ケア)
よく「歳をとったら寝ながら死にたい」という人がいます。でも人はすべて同じ死に方をします。心臓が止まるのです。それが最後。
死亡診断書を書く時に死因を記入しなければなりませんが、心肺停止が起こった前には肺血栓が起こり、それより前にはがんが診断されていた、というふうに巻き戻していきます。私が受け持った生徒たちには、このように必ず死因の前の原因はなんだったのか?その前はなんだったのか?と問うように促しています。
緩和ケアを専門とする医者として、私が担当する患者さんはみな重篤な病を抱え、多くは死に近づいています。私の仕事はまず患者さんに死に至るプロセスについて説明したうえで、そのプロセスを生き抜くお手伝いをすること。
「自然」という言葉は穏やかさを感じさせます。死のプロセスが「自然」であれば、それが起こっていることを意識する必要も、考える必要もなくなります。しかし、現実には死のプロセスがこのように「自然」に運ぶことは滅多にないと言っていいでしょう。病歴を持たない健康体である人が、ある晩眠りについて突然の心臓発作に見舞われる。こんなことが起こるのは非常にまれです。(しかも、「寝ながら死ぬ」というフレーズがよく使われているのにもかかわらず、実際寝ながら死亡したのか、それとも死亡した当時は起きていたのかは、その人を直接間近で診ていなかった限りは非常に判断しづらいのです。)
アメリカでの「自然な死」の典型は以下のようなものです。誰かに何かしら健康上の問題が発覚し、その問題を改善しようと治療します。苦しみをできるだけ緩和し、命を繋ぎとめようとする治療も虚しく、やがて負け戦へと転じます。そこで方向転換がなされ、いかに最期までの時間を最良に過ごせるかを最重視するようになるのです。
ひとつだけ補足を。私はウガンダとインドでの仕事が多いのですが、そこで感じたのは「自然な死」は世界のほとんどの国においては非常に苦しいもので、極端な痛みを伴うものだということです。世界のほとんどの地域ではオピオイドのような強力な鎮痛薬が手に入らないのです。ある意味、人間にとって「自然に」死ぬということは、ひどく苦しみながら死んでいくことです。ですから、私たちはその苦しみをできるだけ取り除くことを目指して努力していかなければならないのです。
「リスク」が増していく
David Casarett(デューク大学医科大学院教授、緩和ケア部門主任。著書に『Shocked: Adventures in Bringing Back the Recently Dead』ほか多数)
老衰で死にたい?…それは無理だ。
絵に描いたような美しい見解だし、社会通念として「老衰で死ぬ」というのはポピュラーで、多くの人が望んでいる。私の患者さんの多くがそれを目指してもいる。まるでダウンヒルスキーの選手がスラロームを描くように、命を脅かす病理をひとつ、またひとつと鮮やかにかわしていって、心不全、前立腺がん、肺炎、果ては新型コロナウイルス…と次々に回避していく。すべては最終的に「老衰」によって安らかに死ねると望んでのことだ。
しかし、老衰で死ぬのは実際ありえない。歳をとるごとに心臓の鼓動がゆっくりになっていき、最後の夜遅くについにピクリとも動かなくなる…なんてことはない。老化すると、がんや認知症などの病気にかかるリスクが増していき、そのうちのどれかが命取りになりかねない。しかし、老衰そのものが死を招いたわけではない。
私の祖母は103歳で天寿をまっとうした。加齢とともに体が弱くなりはしたが、最期まで頭のキレは健在で、本を一日一冊読み通すほどだった。私が書いた小説を最後まで読んでくれたほど、ピンシャンしていた。
そんな祖母は老衰で死んだわけではなかった。高齢化と虚弱性により腰部骨折のリスクが増して、実際骨折してしまった。高リスクな手術は非常に良好な状態で切り抜けたものの、最後は発作により鬼籍に入った。
心理的にも身体的にもずば抜けて健康だったのは事実で、非常に高齢で亡くなったわけだけど、祖母は老衰で亡くなったわけではない。彼女の死因となったのは、たまたま立て続けに起こった不運な出来事の連鎖であり、高齢な彼女の体がよりリスクにさらされてしまっただけだ。
ここで興味深い問いに行き着く。あなたなら、どんな死因を望むだろうか?コレステロール値を敏感にチェックしているあなたなら心臓発作には至らないだろうし、生野菜をバリバリ食べているあなただったら結腸がんは患わないかもしれない。タバコを敬遠しているのならおそらく肺気腫にはならないだろうけど、ではなにが死因となるだろう?なにが残るのだろうか?(私の恩師であるJoanne Lynn医師が20年前にこの質問を提起してくれたことに感謝している。個人的な結論にはまだ至っていない。)
現代社会が私たちに向かって投げつけてくるあらゆる命取りな病をかわしたところで、最後に残るのはなんだろう?その問いに対してのひとつの答えは、私の祖母だろう。彼女は正しく生きた。健康的な生活習慣を維持し、激しい感情の起伏にとらわれず常に穏やかでおおらかな気性を保ち続けていた。彼女の生き方はすべて正しかったのに、正しい生き方はある程度までしか効力がない。最終的には人生が主導権を握り、転落させたり、心臓発作を起こしたり、肺炎をこじらせたりして死を招く。
もうひとつだけ付け加えておこう。老衰で死ぬことはないと言ったが、老齢で死ぬことはもちろんよくあることだ。この違いはよくよく頭に入れておくべきだ。
高齢まで生きる人の多くは死ぬ間際まで精神上、身体上の機能を維持し続ける。そして多くは──もしかしたらほとんどは──寝ながら突然の死に見舞われる。もちろん、もしあなたがまだ20歳代だったとしたら、このような最期を遂げたくはないだろう。あまりにも突然すぎて、準備する暇もないのだから。
でももしあなたがこの地球に生を授かってから1世紀がゆうに経っているとしたら、そして以前にもヒヤッとする臨死体験がひとつかふたつあって、すでにお別れの心構えができていたのなら、眠りながら死ぬというのは多分すごくいいことなんじゃないかと思う。
それこそが天寿をまっとうした人と、しなかった人との最大の違いなんじゃないかな。90歳代以上の年齢まで生きた人は、死を恐れていない。なぜなら、やることはすべてやり尽くし、言うべきことはすべて言い尽くしているから。もう何年も前から心の準備ができていたのかもしれない。
緩和ケアのスペシャリストとして言えることは、高齢であればあるほど最期にじたばたせず、アグレッシブな治療を望んだり長く苦しい化学療法を望むことが少なくなる。死を受け入れて、すうっと亡くなられる。「老衰で死ぬ」ということになにか意味があるとしたら、それは死を受け入れて別れを告げる覚悟ができているってことなんじゃないだろうか。
「一定の速度」で体の機能が失われていく
Allen Andrade(マウントサイナイ医科大学高齢者医療・緩和医療助教)
アメリカ疾病管理予防センターは医師たちに「老衰で死ぬ」や「自然死」などの表現を使わないことを推奨しています。これらの言葉は医療コミュニティーにとってあまり価値がない、というのがその理由です。
かつては死ぬ前に起こった一連の事柄から死因を特定できなかったり、他殺・自殺などの自然ではない死に方が疑われていなかったり、リソースが限られていたために検察医、または検死官が死因を特定するための捜査を行なえなかった場合などに広義で使われていた言葉でした。
しかし、これらの言葉は今でも一般大衆にはポピュラーです。死が予期せぬもの、またはトラウマを伴うものではなかったという印象を与え、また死因にまつわる話しにくいことを遠ざけるからでしょう。これは、私たち全員がなるべく長い間「若くて元気」でいたいと願い、重病にかかって長い間苦しむことを避けたいと思っているからです。誕生と同じく、死は人生の警鐘事象(sentinel event)であり、極めて激しく感情をゆさぶる故に多くの人が避けたいテーマなのです。
興味深いことに、多くの人は死そのものを遅れているのではなく、死に至るまでのプロセスを恐れます。人工呼吸器などの生命維持装置に頼らず死を迎える人々は、多くが同じ死に方を経験します。死に方の違いを分けているのは、体がどれほどはやく機能停止するか。
数週間から数ヶ月に及ぶ人もいれば、数日間から数週間、数時間から数日間、そして数分から数時間かけて死んでいく人もいます。数週間から数ヶ月の時間枠がある人は、一定の速度で体の機能を失っていき、座りっぱなしや寝たきりになってまわりの人に身の回りの世話をしてもらいます。数日間から数週間ある人は、次第に集中力を失っていき、周囲でなにが起こっているのかを意識しなくなり、飲食に対する興味が薄れていきます。数時間から数日間で亡くなる人は周囲でなにが起こっているのは分からず、次第に嚥下が困難になり、呼吸が荒くなってまるで全力疾走したかのような疲労状態となります。そして数分から数時間の間に亡くなる人はすでに意識がなく、不規則な呼吸をします。
まとめると、死は自然なプロセスであり、おおかた安らかです。死にゆくプロセスの時間の長さと死に至る原因によっては、死ぬ間際に呼吸の乱れ、痛み、せん妄などの症状を経験しますが、医師の介入により痛みを緩和したり、安らぎを高めて死ぬまでの時間をなるべくクオリティーの高いものにすることはできます。