SNSで知り合った男性を「有名大卒の日本人」と信じて精子提供を受けた女性が、男性が学歴や国籍を偽ったとして訴訟を起こしたニュースは記憶に新しい。精子提供は非常にデリケートな問題であるため、とりわけ“優秀”と謳って精子を仲介する精子バンクには高い倫理性と確実な業務遂行力が求められる。米国での精子提供にまつわる現状について、バージニア大学の法律学教授ナオミ・カーンらが『The Conversation』に寄稿した記事を紹介しよう。
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子どもを授かりたいと心に決めたノーマン夫妻は、精子バンク「ザイテックス社*1」で精子を購入する選択をした。選んだのはドナー番号#9623。マルチリンガルで博士号取得に励んでいる男性だとザイテックス社から説明を受けた、とノーマン夫妻は後に主張している。
*1 XYTEX Corp., https://www.xytex.com
ザイテックス社はさらに、すべてのドナーについて、家族の病歴や犯罪歴を慎重に審査しており、ドナーには集中的な身体的検査や聞き取り調査を行い、提供された情報の確証を取っていると太鼓判を押した。
2002年、妻のウェンディ・ノーマンは息子を出産した。しかし、生まれた子どもには、ウェンディ由来ではない遺伝による血液疾患が受け継がれていることが分かった。この疾患により、長期の入院生活が必要になると考えられた。
次々に判明した嘘のドナー情報
さらに後になってから、ノーマン夫妻はドナーのジェームス・クリストファー・アゲレスが自身の経歴について精子バンクに嘘をついていたこと、そして精子バンクは彼が提示した情報を検証していなかったことを知った。しかも、病歴の提出も、精子譲渡証書への署名もさせていなかったことも判明した。
ドナーのアゲレスは、精子提供を始めた段階で博士号取得どころか、大学の学位すら持っていなかった。さらに、統合失調症の診断を受けていることも明らかにしていなかった。統合失調症は、遺伝の可能性があるとされている精神疾患だ*2。しかも彼は、精子提供の時点で逮捕されており、後に窃盗罪で収監されている。
*2 統合失調症の罹患率は米国人口の約1%だが、親やきょうだいが統合失調症だと罹患リスクは10%に増え、両親ともに統合失調症の場合の罹患リスクは50%とされている。(全米精神障害者家族会連合)参照:Is Schizophrenia Inherited?
ノーマン夫妻はザイテックス社を訴えた。ところが地方裁判所は、ノーマン夫妻の主張のほぼすべてを退けた。そこで夫妻は、ジョージア州最高裁判所に上訴した。2020年、彼らの主張のいくつかが認められた。
たとえば、ドナーが正しく申告していれば回避できていたであろう追加費用について、一部損害賠償が請求できることになった。ノーマン夫妻が精子に支払った金額と、市場価格(精子バンクを介さずにやりとりされてる価格)*3の差額回収を試みることもできるとした。さらに、州の公正な商慣行条例(Fair Business Practice Act)に基づき、精子の質とその審査プロセスについて一般の人々に誤った情報を伝えた精子バンクを訴えることが認められた。ただし、「ロングフル・バース(wrongful birth)*4」と呼ばれる訴訟を起こすことは認められなかった。ノーマン夫妻の訴訟は、まだ審理中だ。
*3 精子バンクを介さず、Facebookグループやアプリ経由でドナーとマッチングし、旅費のみを支払って精子提供を受ける事例も増えている。例えば、非公開のFBグループ「Sperm Donation USA」の登録ユーザー数は2万人。参照:The Sperm Kings Have a Problem: Too Much Demand
*4 子どもが先天性障害をもって生まれてきた場合に、親が、医師の過失がなかったならばこの出生は回避できたはずと主張し、医師に対して損害賠償を請求する訴訟をいう。
参照:日本におけるwrongful birth訴訟と障害胎児の妊娠中絶
増える訴訟と精子バンクの言い分
ノーマン夫妻のような訴訟は、決してめずらしくない。このような事例を聞くにつけ、法学教授として生殖技術を研究している筆者たちは、提供精子・卵子(以下、「提供精子」と表記)をめぐる政府規制を強化し、これから親になろうとする人たちや、提供精子で生まれて大人になった人たちが、ドナーについての正確で詳細な情報(病歴、学歴、犯罪歴など)を受け取れるようにすべきと考える。
提供精子で生まれた子どもに遺伝的疾患があると分かった後で、精子バンクを訴えたケースもある。こうした事例の多くで、精子バンク側は「自分たちは常に精子を検査し、遺伝的疾患を引き起こしうる遺伝子を持つドナーは除外している」と回答しているが、家族側にも詐欺または過失で精子バンクを告発するだけの根拠がある。
提供精子で生まれて大人となった人が、虚偽の説明のうえ、実際は自分の精子を提供していた医師を訴えたケースもある*5。一部の州では、こうした「生殖詐欺(fertility fraud)」を明確に禁じている。
DNA鑑定が普及するも明確なルールの不在
訴訟が増加している理由に、消費者向けのDNA鑑定の普及がある。これにより、ドナーの特定、ならびに提供精子で生まれた人が受け継いでいるおそれがある遺伝的リスクが把握しやすくなっているのだ。
精子ドナーの審査は、伝染病を患っているかどうかまではカバーしていないことが多い。 Sebastian Kaulitzki/Science Photo Library
精子バンクを規制する明確なルールや法律がないことも、訴訟の数が増えている要因だろう。体外受精を含むいかなる種類の生殖技術に関しても、州レベルでも連邦レベルでもほとんど規制がないのが現状だ。
政府がトラッキング調査をしているわけではないので、提供精子で生まれた人の数は正確にはわからない。政府が求めているのは、提供精子をほかのヒト組織と同じように扱うことと、ウイルス・細菌・その他の手段を介して広がる伝染病の検査をすることだけで、遺伝的疾患については対象としていない。精子バンクがドナーの情報(病歴、学歴、犯罪歴)を入手し、確証することは要件となっていない。
生殖にまつわる過失について、訴訟が認められる範囲は州によって異なる。
一部の州では、重篤な遺伝性疾患がある子どもの出生に関する賠償請求と、ドナーの適正な審査を実施していなかったクリニックを訴えることの両方を認めている。これは「ロングフル・バース訴訟」が可能となることを意味する。しかし近年は、そのような訴訟を禁じる州が増えており(現在14州)、ジョージア州最高裁判所をはじめ多くの裁判所が、その2つを分けて考えている。
揺れる匿名性の問題
こうした論争解決を阻む原因は、ほとんどの精子提供が匿名で行われていることにある。自分の身元は伏せておきたいというドナー側の思いもあろうが、ドナーの提供精子で生まれた者からすると、ドナーについての身元や、病歴、学歴、犯罪歴を詳しく知りたいという強い思いがある。
最近では、「23andMe」などの消費者向け遺伝子検査*6が、ドナーの匿名性の維持を難しくしている。また、ノーマン夫妻がそうだったように、いったんドナーが特定さえできれば、さまざまな方法でドナーが嘘をついていないかを確認することが可能だ。
*6 医療機関を介さずに消費者に直接販売するものを指し、「DTC(direct to consumer)遺伝子検査」ともいわれる。
規制に乗り出す州
米議会は補助的生殖技術に関して、1992年以降何ら対応策を講じていない*7。そのため、州レベルでの介入が徐々に始まっている。
*7 1992年に「不妊治療施設の臨床実施成績および施設認可法」が制定され、毎年データを収集、公表されることとなった。
2011年、ワシントン州では、「子どもが18歳になる時点でドナーの身元情報と病歴の公開」を命じた。コネチカット州では2022年1月1日、「統一親子関係法(Uniform Parentage Act)」が制定され、これにより不妊治療クリニックはドナーの身元情報を収集し、ドナーが公開に同意したか否かを知らせることが義務づけられることとなった。
ニューヨーク州で協議がすすんでいる施策では、精子バンクにすべてのドナーから「病歴、学歴、犯罪歴の情報を収集し、検証すること」を求めている。また、提供精子を購入して親になろうとしている人と、ドナーの提供精子によって出生した人に、そうした情報(病歴、学歴、犯罪歴)を入手する権利も与える内容となっている。これだと、少なくとも理論上は、ドナーの匿名性は保たれることとなる。
ニューヨーク州のこの法案が起草された背景には(少なくとも部分的には)、提供精子で生まれた息子(27歳)がオピオイドの過剰摂取で死亡したローラとデービッド・ガナ―夫妻の事例がある。ガナ―夫妻は息子が亡くなってから、ドナーが数年前に亡くなっていたことと、統合失調症の診断を受けていたことを知った。ドナーは精神疾患があること、行動上の問題から入退院を繰り返していたことを公表していなかった。
提供精子による不妊治療コスト
ニューヨーク州で審議中の法案が通過すれば、不妊治療にかかる費用がさらに高額になることも考えられる。現在、提供精子の価格は1000ドル(約11万円)近くで、そこからドナーが受け取る額は150ドル(約1万7千円)というのが相場だ。それに人工授精では、1回目か2回目で妊娠できることはまれである。
ニューヨーク州の法案提唱者で、2022年に設立された非営利団体「U.S.Donor Conceived Council(ドナーの提供精子で生まれた人たちの協議会)」の代表タイラー・スニフからの情報によると、DNA鑑定を行う企業は、300ドル(約3万4千円)以下と低価格のメニューも提供しているという。
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もちろん、ドナーの情報開示によって、親が生まれくる子どもについてすべてのことを知ることができるわけではない。しかし、テクノロジーは規制をしのぐ勢いで進歩している。精子バンクの利用者も今後ますます増えるだろう。精子バンクを利用する人たち、そして提供精子で出生して大人になった人たちが自分たちの利害を主張していけば、この問題は今後さらに重要視されることは間違いない。
著者
Naomi Cahn
Professor of Law, University of Virginia
Sonia Suter
Professor of Law, George Washington University
※本記事は『The Conversation』掲載記事(2022年1月18日)を著者の承諾のもとに翻訳・転載しています。