競走馬の見た目を変えて「遅い馬の替え玉」として出走させるイカサマで大勢をだました男とは?

GIGAZINE
2021年08月22日 12時00分
メモ



競馬で、人気がある馬は的中時の払い戻しが少なく、人気薄の馬は的中時の払い戻しが多くなるというオッズの仕組みを利用し、「実力馬を人気薄の馬に誤認させる」という大胆な詐欺で競馬界に混乱をもたらしたのが、ピーター・クリスチャン・バリーという男です。

History’s Greatest Horse Racing Cheat and His Incredible Painting Trick
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バリーは1888年にスコットランドで肉屋の息子として生まれ、成人後にオーストラリアへと渡って、1914年9月にオーストラリア帝国軍第6軽騎兵連隊に入隊しました。当時の入隊書類には、バリーが動物の歯科医として働いていたことや、イギリス海軍補助艦隊で馬の世話をしていたことなどが経歴として記されているとのこと。その後、バリーは1915年5月にガリポリへと送られましたが、感染症や下痢などで病院船にいる期間が長く、最終的にロンドンにある陸軍省で運転手として過ごしたそうです。

第一次世界大戦が終結する前の1917年に財布を盗んで捕まったものの、バリーは1918年に結婚してロンドンに家を建て、同時に馬も購入したそうです。バリーはこの生活を維持するために、競馬のイカサマに手を染め始めたのではないかと考えられているとのこと。

1919年から1920年にかけて、バリーは仲間たちと共に「替え玉」を使ってイングランドの競馬界を荒らし回りました。バリーの用いた手口は以下の通り。

・1:「速い競走馬」と「遅い競走馬」を用意し、遅い競走馬の名前でレースにエントリーする。
・2:レース当日、「遅い競走馬に見えるようにメイクアップした速い競走馬」を出走させる。イカサマの仲間であるギャングたちは「人気のない遅い競走馬」に大金を賭ける。
・3:厩務員やレース場の関係者、レースを見守る観客全員をだまし通すことができれば、高い確率で速い競走馬が勝利してギャングたちは大金を手に入れ、バリーは分け前をもらう。その他の人々は、レースに勝った競走馬について「遅い競走馬がこれまでで最高の走りをした」と思い込む。


バリーが用いたのは非常にシンプルな手口ですが、問題は馬の外見を変えて大勢をだまし通せるのかどうかという点です。しかし、「馬の見た目を変える」という点においてバリーは特異な才能を持っており、漂白剤・アンモニア・ばんそうこう・硝酸銀・ヘナといった道具を使い、馬の見た目を自由自在に変えることができました。

後年、バリーがDaily Newsの記者に語ったところによると、まずは馬をシャンプーして目の上に保護テープを貼り、毛を漂白剤で脱色することから始めていたとのこと。この漂白作業は非常に重要であり、程度を誤ると皮膚が傷ついて馬の足が遅くなってしまったり、あるいはその後のヘンナによる染色作業がうまくいかなくなったりしたそうです。脱色してからヘンナを使って模倣したい競走馬の毛色に染色した後、白い斑点がある場合は対応する部分を再漂白しました。この際、ばんそうこうをマスキングテープのように使って模倣したい競走馬にそっくりな模様を再現したほか、硝酸銀で鼻をたたいて着色することもあったとバリーは述べています。

毛色以外の部分も似せる必要がある場合、バリーは耳の腱を切ったり尻尾の毛を抜いたり、たてがみをカットしたりして、モデルの馬に近づけました。また、去勢されてない馬を去勢されている馬に見せかけたい場合、レース前に氷のブロックを睾丸に当てて収縮させ、去勢されているように見せかけることもあったとのこと。時にはかつて動物の歯科医として働いた経験を生かし、ナイフやドリルを使って歯を削ることもあったそうです。

さらにバリーは、レースの勝率を高めるために馬にヘロインやコカインを注射することもありました。ただし、バリーに限らず、20世紀初頭の競馬界では競走馬にヘロインやコカインを注射する不正が横行していました。


しばらくイングランドの競馬界を荒らしたバリーでしたが、仲間が購入した「ジャズ」という優秀な競走馬を、「コート・オブ・メール」という一度もレースに出たことがない馬に見せかけた一件が明るみに出て3年の刑が科されました。1923年に出所すると、バリーは妻と別れてアメリカへと渡り、今度はアメリカの競馬界を荒らし回りました。

ギャングたちと手を組んでさまざまなレースに替え玉を出走させたバリーは、1931年に「アクナトン」と「シェム」という馬の入れ替えを行いました。2頭はともに1907年にアメリカのリーディングサイアーになった「コマンド」を曽祖父に持ち外見が似ているという共通点はあったものの、競走能力には大きな差がありました。シェムとしてメリーランド州ハバディグレイスで開催されたレースに出走したアクナトンは、52:1(53倍)のオッズをひっくり返して勝利しましたが、この一件で手を組んだギャンブラーがバリーの情報を漏らしてしまったため、競馬場関係者が雇ったピンカートン探偵社に追われる身となってしまいます。

バリーはアクナトンとシェムと共にさまざまな隠れ家を転々として、時にアクナトンを別の馬に見せかけてレースに出走させましたが、1932年に探偵によって居場所を突き止められてしまいました。これを受けて、警察もバリーの身柄を確保しようとしましたが、なんとバリーには競馬のイカサマに関連して警察が起訴できる罪がなかったとのこと。当時、ほとんどの州で「ある馬を別の馬に偽装して、偽名でレースに出走させること」を禁じる法律がなかったため、バリーがやったことはイカサマではあったものの、違法行為には当たらなかったそうです。

結果的に、バリーはアメリカに不法入国したとして強制退去処分となりましたが、その後も何度かアメリカとイギリスを行き来してイカサマを行いました。ピンカートン探偵社はそのたびにバリーの居場所を突き止めて強制送還していたとのこと。以下が、ピンカートン探偵社によって撮影されたバリーの写真です。


バリーはイカサマにおいて重要な役割を担っていたものの、イカサマから得る利益の多くは主に手を組んだギャングらが手にしており、あくまで雇われの身だったバリーはそれほど大金を手にしたわけではなかった模様。1946年から北米で「競走馬の唇にタトゥーを入れて識別する」というイカサマ対策が取り入れられて以降、バリーは替え玉を実行することができなくなり、1973年に85歳で亡くなった時にはイギリス政府所有の単身者向け住居に住んでいたとのことです。

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