「運動をすることは認知能力に良い影響を与える」といった学説を信じる人も多いですが、グラナダ大学のダニエル・サナブリア・ルセナ氏らの研究チームが、109件に上る「運動が認知能力に与える研究」を分析したところ、「運動が認知能力を向上させるという決定的な証拠はない」と結論付けています。ルセナ氏が海外メディアのEL PAÍSのインタビューに応じており、スポーツやその他の運動が脳機能に対して有効な効果を示す研究の限界について語っています。
Daniel Sanabria, psychologist: ‘The best predictor of professional success isn’t cognitive performance, it’s whether your parents have money’ | Science & Tech | EL PAÍS English
https://english.elpais.com/science-tech/2023-04-13/daniel-sanabria-psychologist-the-best-predictor-of-professional-success-isnt-cognitive-performance-its-whether-your-parents-have-money.html
「ルセナ氏らの研究は、人間の健康について不確実性を提供していると考えられます。どうすれば人々はこの不確実性を学ぶことができますか」という質問に対し、ルセナ氏は「幼少期から科学教育に重点的に取り組むことが重要です」と提案しています。ルセナ氏によると、科学の仕組みを理解するためには、研究者にバイアスや偏見があることを理解することが重要とのこと。
また、ルセナ氏は「人々はメンタルヘルスを含む健康に関する明確でシンプルなアドバイスを求める傾向があります。しかし、健康に関するアドバイスを行うことは複雑で、多くの研究領域に不確実性が存在することを認識することが重要です」と述べています。
さらにルセナ氏は矛盾する2つの理論を学生に教えたところ、「私は何を信じるべきですか」と言われてしまったことを振り返りながら、「科学は信じるものではなく、むしろ理論を生み出し、証拠を蓄積していった先に仮説が生じる学問です」と答えています。
運動が認知にプラスの効果をもたらすと信じられるようになった研究の発生要因について、ルセナ氏は「過去20年間にわたり、このテーマへの関心が高まった結果、運動による身体的な健康だけでなく、運動がもたらす認知的なメリットの分析が進みました。多くの研究が、最大数千人にも及ぶ大規模な参加者を対象に、身体活動のレベルや心血管フィットネスと認知機能の間の関連性を確立しようと試みてきました。これらの研究の結果、相関関係があることが判明しましたが、『相関関係』が『因果関係』と同じではないことを注意すべきです」と述べています。
因果関係を証明するためには、参加者を運動を行う実験群と運動を行わない対照群に無作為に割り当てる「介入研究」と呼ばれる手法が一般的に行われます。しかし、運動と認知機能に関する109件の研究を分析したところ、定期的な運動が認知機能や脳機能に及ぼす影響を研究する上で、縦断研究による調査を行っただけで、介入研究は行われませんでした。そのため、これらの研究では運動が認知機能に役立つと結論付けることは難しいとルセナ氏は主張しています。
さらにこれらの研究では、否定的な結果や無効な結果が公表されない「出版バイアス」が存在することが懸念されており、望ましい結果が得られなかった場合に選択して一部の結果だけを報告することは、認知機能に対する運動の本当の効果に関する理解をゆがめる可能性があることが指摘されています。
出版バイアスの例としてルセナ氏は「バイリンガルの認知的な利点」や「精神的疲労が身体的なパフォーマンスに及ぼす影響」についての研究を挙げています。
ルセナ氏によると、2000年から2010年にかけて、「複数の言語を話すことができる人物は、一つの言語しか話せない人物よりも認知能力が高い」という研究結果が急増し、その結果バイリンガルスクールなどの語学学校が数多く創設されました。しかし、バイリンガルの分野の研究を行っていた著名な団体が、バイリンガルの認知的利点は肯定的な結果が否定的な結果よりも多く掲載されるという出版バイアスであるという研究結果を示しました。
また、「運動をする直前に精神的に負荷のかかる作業をすると、作業をしない場合よりもパフォーマンスが低下する」というスポーツ科学で広く信じられている研究についてルセナ氏らが再実験を行うと、パフォーマンスの低下は確認できませんでした。さらにルセナ氏らがこれらの研究について分析を行うと、これらの研究はわずかな参加者で研究を行っていたことが判明しました。十分な参加者が得られずに実験を行った場合、出版バイアスがかかり、質の低い研究結果につながることがあります。
同様に「微弱な電流を脳に流すと、運動のパフォーマンスが向上する」という研究について調査を行った結果、ルセナ氏はそのような結果は得られなかったことを報告しています。
一方でルセナ氏は「私たちの分析結果は、これらの研究結果から得られた効果が存在しないことを意味するものではありません」と述べています。その理由を「証拠がないことは、効果が無いことの証明にはならないからです」と述べ、「より多くの質の高い研究が行われた場合、正確な効果が得られる可能性があります」と語っています。
続いて「研究への参加者を意図的に選択することは結果に大きく反映されますか」という質問に対し、ルセナ氏は「大きな影響を与えることが可能です」と肯定しています。
一例としてルセナ氏は「認知機能の低下を防ぐために、運動が認知機能や脳のパフォーマンスに与える影響を調べたいので、高齢者を募集しています」と呼びかけた場合、参加する人物は「運動が脳に与える影響に興味を持った高齢者」が中心となることを指摘しています。
この参加者の募集方法で実験を行った場合、医学界で標準となっている「プラセボ効果」を検討することが不可能だとされています。また、運動トレーニングを行う群と行わない群を分けた際に、運動トレーニングを行う群の参加者の元来の認知能力が低い場合、正確な結果が得られない場合があることが指摘されています。
このような参加者間の問題は、出版バイアスにつながる可能性が懸念されています。また、運動が認知に及ぼす効果を示す肯定的な結果の研究が多く発表される可能性がある一方で、否定的な結果を示す研究は無視、除外される危険性があることが指摘されています。そのため、運動と認知能力に関する研究を行う際には、出版バイアスなどの偏見や、最適な研究デザインを考慮する必要があります。
さらに「心理的な研究における結果の説明は、脳の影響に焦点を当てすぎなのでは」という意見に対して、ルセナ氏は「運動やマインドフルネスなどの効果を研究する際のリスクの一つは、個人の文脈的要因が見落とされがちであることです」と指摘しています。「学業やキャリアの成功に関しては、両親の社会的、経済的な立場や両親からの支援といった要因が、個人の認知能力よりも強い予測因子になり得ることが示されています。しかし社会的な背景は軽視され、個人の特性や能力に注目されるケースが多くなっています」とルセナ氏は例示しています。
このような狭い解釈は個人の責任を過度に追及するようなメッセージにつながる危険性があります。ルセナ氏によると、体重の増加は、その人の経済的、環境的要因などの外的要因による影響を無視する傾向があります。また、運動不足が原因で病気になった場合、その人の社会的要因を軽視して、意思の弱さだけが追及される可能性が指摘されています。
ルセナ氏は「このようなメッセージは、個人の選択と生活を形成する社会的、環境的要因の間の複雑な相互作用を無視しているとされています。そのため、より広い文脈を考慮し、個人の結果がその人の責任だけではない、さまざまな要因によって形成されることを認識することが重要です」と述べています。
ルセナ氏は運動を行うことは健康上の面から推奨するものの、子どもの心身の発達のためにスポーツなどの習い事を強制させることについて注意喚起を行っています。ルセナ氏によると、子どもがそのスポーツを好きだと思った場合に参加させることが重要で、子どもの精神に何らかの有益な効果を求めるために強制させてはいけないとのこと。また、心身の健康に関わるすべての責任を個人に負わせるべきではないことをルセナ氏は指摘しています。
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