「異見」を述べることができる社会:高度成長期時代のスタイルは限界

アゴラ 言論プラットフォーム

日本は長く、異論を挟むことを好まない社会でした。我々は年長者から「周りの言う人に従う」「社会のルールには口を出すな」という一種の道徳教育を直接的、間接的に受けてきた人もいるかと思います。私もその一人です。同調圧力や「出る杭は打たれる」というのもその表れの一例かと思います。

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が、社会が進化し、情報化が進めば人々は覚醒していきます。「俺は(私は)こう思うのに何故それを言ってはいけないのだろう?」です。

異見の話の前に趣味の話をしましょう。秋葉原や池袋に行くと感じることがあるのです。「ディープな趣味の店に群がる人たちの満足げな顔」です。同じことは新宿2丁目もそうだろうし、かつての神保町の古本屋もそうなのかもしれません。一般の人から見れば全く興味を示さないであろう商品やサービスに飛びつく人たちは飢えているのです。そしてそこに行けば同胞の集まりとして一種の社会が形成されるのです。個人的にはオタク文化という表現にとどまらないしっかりした社会現象だと思っています。

日本には1億2千万人の人口があり、そのうち1000人に1人しか興味がない特別なものでも日本全体では12万人にも及びます。そのマーケットはシャローだけどそれが1か所に集約していたらそこで落とされるお金、つまり経済効果は波及性も含め大きなものになります。

ではこれをオピニオンにおける異見で捉えてみましょう。1000分の1、つまり0.1%の人しか支持しない意見だとしても単純計算で12万人います。現代社会で起きていること、それは1200万人の声と12万人の声の差がわかりにくくなっていることです。いや、差など知る必要はないのです。仮に5つのオピニオンの選択肢が並んでいたとしたら自分の信条に合わせ選べばよいのです。結果としてそれが0.1%の支持率のものであっても、です。

この社会的変化は一部の人たちには全く共感を生みません。むしろ強い批判を伴うことすらあります。それは主流派が自分たちの牙城を守るためでもあります。

アメリカは二分化どころか、大分散化時代を迎えたとみています。それは個々の生きざま、価値観の萌芽であります。日本も文化的に強く影響を受けているため、その流れを阻止することはできません。女性の権利、LGBTQの議論などが目立ってきたのはその表れのひとつです。

以前、私はWEB3.0の話をしました。ブロックチェーンのDAO(分散型自律組織)です。これはWEB2.0が社会の同調性とも言えるべき市場の支配者がビックデータを活用し、独占的行為を伴うものでしたが、WEB3.0の時代になり、本当に意見の合う小社会、共同体を作るという発想への変化です。そもそもはコンピューターの世界の話なのですが、これが実は社会にそのまま反映される事態になってきているのです。

上述の「アキバ」や「ブクロ」の趣味の世界に浸る人たちは私の感覚からすればDAOなのです。

私のブログのコメントを拝見していて強い自己主張や「〇〇さんに賛成」といったグルーピングの動きは昔からあるのですが、私から見れば、コメンテーターの一意見に過ぎず、それを一生懸命言って同調者を増やそうというの自己主張や自己表現なのです。10年前なら声の大きい人の「この指とまれ!」が有利だったのです。今は明らかに違います。

それは正解がない社会に突入したということです。成熟社会とは天国か地獄かの選択肢ではなく、海に行くか、山に行くか、という並列の選択肢に変わりつつあるのです。私が再三主張するように物事に対する解は無限にあるのです。そう考えることが出来ず、四択の一つしか正解は無いと教えられたのが日本であるのです。意見とはその人の立ち位置から見るものでシニアのゆとり層の眺望と2-30代のもがく世代とはまるで違う訳でそれが「異見」となるのです。よって意見を異見として否定すべきものではないのです。これが今の社会ルールになりつつあるのではないでしょうか?

私が以前、自民党は割るべき、と意見したのはこれだけ成熟したのにいまだに高度成長期時代のスタイルでものごとを捉えようとしているのです。官僚もしかり。当然ながら私の意見に異論は相当あったと記憶しています。が、社会は変わってきています。アメリカという顔が見えにくくなっているのと同じように日本の顔も見えにくくなるのです。が、個々の小さな細胞分裂したコミュニティは新しい形で統合、結合し、再発展するものです。

我々には様々な声にフィルターをかけずに見る努力が求められるようになったのではないでしょうか?

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年5月21日の記事より転載させていただきました。