創世記。神は「猫あれ」と言われた。すると信じられないくらいかわいいフワフワの生き物があった。人間たちはその猫を見てよーしよしよしよしかんわいいねええええ〜〜〜〜〜存在していてえらいねえ!!!!と言い、猫を吸いすぎたうちの何人かはアレルギーになった。
筆者の家には猫がいない。猫あれ。
「夜道で白い猫を見つけたと思い、近づいたらビニール袋だった。」
インターネットで昔から語り継がれる笑い話だ。筆者にもよくある。
そしてここからはやや笑えない話だが、筆者の場合はビニール袋と気付いてからも、しばしそこに立ち止まり「猫がいるなあ」と眺めることがある。
筆者の家には猫がいない。
ペット禁止のマンションに住んでいるわけではなく、ただ家に観葉植物とワレモノが多いからだとか、動物病院が近くにないからとか、適当な理由を公言している。
実際のところは、極端なアレルギー性鼻炎である自分が、猫を触ると鼻水が止まらなくなるという現実を直視したくないからだ。
ほんものの猫が家にいてほしいだなんて、高望みはしないことにした。
「一瞬だけ猫に見えてドキッとする何か」があるだけでいい。私の生活を潤しておくれ。
ビニール袋は、夜道でなければ猫になれないらしい。
では、素材をより猫らしくしてみてはどうか。
視界の端に映り込む分にはドキッとする。しかし「パーカーを裏返して椅子に脱ぎ捨てた人」のようにも見え、ガッカリする落差のが大きい。段差があると思っていなかったところを踏み外し、予定より5cm下に踏み込んでしまったあの気分。
しかし、少なくともビニール袋よりは猫らしく見えることが分かった。必要なのはフワフワの布だ。
おそらく、ここが日本で一番多種多様な布を見比べられる場所であろう。
試しに布を丸め、椅子の上に置いてみた。
大きめの猫ちゃんと言われたらそう見えるかもしれない。少なくとも生き物らしくなってきた。
撫でるのを嫌がって頭を隠している猫に見える(見えませんか?どうですか?)(この記事はこの先もこういう感じで進みますが大丈夫ですか)。
かなりLOVEの心が湧いてきたため、「視界の隅に映ったときに猫かと思ってドキッとする」はクリアだ。お陰様で生活にハリがでてきた。
しかし人間とは強欲なものである。理性が「これはただの布だ」と理解した途端に、脳が猫を認識しなくなる。
より生々しく猫の存在を感じたいため、手芸の力でシルエットを改良することにした。
“ねこ”のいる暮らし
その後ミシンと格闘したり、綿をぎゅむぎゅむに詰めたりした結果がこちら。
勘で作ったわりに、だいぶ猫の頭っぽい。
猫だ。これはほとんど生命だ。
さっきまでは「視界の端に一瞬捉えるぶんには猫」だったのが、「じっくりと見れば見るほど猫」にグレードアップした。形が生き物に近づくだけで、今にも動き出しそうな気がする。
このふわふわを”ねこ”と名付けることにした。
より猫に近づける方法を思いついた
顔の上に載せてみて、一つ足りないものに気がついた。「体温」だ。
某パワーちゃんが猫(の血)は暖かくて気持ちがいいと言っていた通り、哺乳類に触れてその生を感じさせる大きな要素の一つに「暖かさ」がある。それを逆から考えると「暖かければ生命に近づく」はずなのだ。
保温剤入りの”ねこ”の下に寝てみると、ほどよく重く、そしてじんわりと温かい。目を閉じて頭を撫でればまるで本物の猫がそこにいるようだ。
そうか、お前の役目は「湯たんぽカバー」だったのか。
“ねこ”という概念
幼少期、祖母の家の猫をかわいがりすぎて嫌われていた。
きっかけは「首輪を嫌がってつけてくれないの」という話を聞いたとき。外に出て迷子になったらかわいそうだと思い、猫の顔じゅうに祖母の家の「上田」のハンコを押した。
上田上田上田になった顔の猫。祖父母は大笑いしていたが、猫はそれ以来私に寄り付かなくなったし、私は猫を撫でるとくしゃみが出るようになった。確か6歳くらいのときだ。
それでも”ねこ”なら大丈夫。どれだけ撫で回しても平気だし、膝に乗せたまま仕事をしてもいいし、抱き上げたって怒らない。
これからSNSでかわいい猫ちゃんの写真を見て、羨ましさに狂いそうになったときは、”ねこ”を抱いて過ごそうと思う。