ちぎれそうな町、いろいろあるけれど、長野県の立科町が、日本でいちばんちぎれそうな気がしている。
気になるので、実際に現地まで行ってみた。
ちぎれそうな町とは?
「ちぎれそうってなんだよ」という話だが、ぼくの言う「ちぎれそう」というのは2箇所の領土が、めちゃくちゃ細長い領土でかろうじてつながっているように見える自治体のことだ。
まずは長野県立科町の地図を見てほしい。
ほら、これ。ちぎれそうだろう。どこかにぶら下げておいたら、下の方が30分ぐらいでボトッと落ちそうな、これが「ちぎれそう」な町だ。
ただたんに、領土が細長いというだけの場所であれば、日本各地にいくつもある。たとえば、静岡県沼津市。
これも、地図でみると今にもちぎれそう……というか折れそうだけれども、実は、沼津市のいちばん狭い場所は、川(狩野川放水路)のトンネルになっているので、見方によっては「ちぎれそう」じゃなくて「すでにちぎれちゃってる」と、言えなくもない。
さらにいうと、沼津市の形は、昭和の大合併のときに、南側の西浦村と内海村が、ちぎれそうな所から北側にあった沼津市と合併したので、こんな形になったという経緯がある。
しかし立科町は、今回調べた限りでは少なくとも明治時代からこの形だったことがわかった。つまり「ちぎれそう」の由緒の正しさ(なんだそれ)でいえば、立科町の方が年季が入っている。
いちおう、この立科町のいちばんくびれている部分のグーグルマップをリンクしておくので、気になる人はズームアップしてよく観察してみてほしい。
ちぎれそうな場所は雨境峠
立科町は、1955(昭和30)年、芦田村、横鳥村、三都和村が合併し、立科村として発足した。(1958年に町制施行)中でも芦田村は中山道の芦田宿のあった宿場町で、江戸時代から栄えていた。
立科町のいちばん細いところは、立科町の町役場がある中心市街地から、県道40号をひたすら15キロほど南下したところにある、雨境峠という場所だ。雨境。境目好き(筆者西村は、県境マニアです)にとっては、もう、地名だけでたまらない雰囲気がただよう。
立科町役場のあるあたりは海抜700メートルほどで、雨境峠は1500メートルぐらいらしいので、その標高差は800メートルほど。雨境峠までの道は、芦田川という谷底を流れる川に並走する形になっており、しばらくはその川にそって山道を登ることになる。
やがて、川が途切れ、坂道の傾斜がすこしきつくなってきたと思うと、道の横に白樺の木立が目立ちはじめる。
そして、坂道を登りきった感じになったところで急に空が開け「雨境」の標識が見えた。ついに、ちぎれそうな場所に来た……と思った瞬間、雨がざぁざぁと降ってきた。
もともと、天気はあんまり良くなく、雨粒がぱらついてはいた。しかし、カッパがなくても大丈夫なぐらいの小雨だったので、無視して登ってきたのだが、そうは問屋が卸さなかった。
あわててカッパを着込み、いちばんちぎれそうになっている場所を見て回る。
先に見えるスノーシェードのあたりが、立科町のいちばん細くなっている場所で、写真に写っている道路の左側が佐久市、道路が立科町(北佐久郡)、そして右側の森の奥が長和町(小県郡)で、最細部の幅は53.5メートルほどだ。
53.5メートル。大人が猛ダッシュすれば10秒ぐらいで横断できる距離だ。縦に伸ばすと渋谷109のビルの高さぐらいだが、これは例えない方が良かったかもしれない。
長和町の方へ降りることができる短い林道を下る。薄暗い森を数十メートル進んで抜けると、だだっ広い太陽光発電所と緩やかな山並みだけがあった。
長和町と立科町の境界あたりに、樹木や山菜の採取禁止を知らせる長和町の看板があった。
薄暗い森を引き返して、いまきた道を振り返ってみる。
バス停と民家のあるあたりまで戻ってみた。
雨境というバス停と、人が住んでいるのかどうかわからない民家が佐久市側に1軒、立科町側にも1軒、そして納屋が1軒。人の気配はない。
バス停のすぐ横には、六川源五右衛門翁屋敷跡の碑がある。
この六川源五右衛門という人物は、立科町の里の方にある西塩沢という村の生まれだが、明治時代にこの雨境から更に南にある白樺湖近くの大門峠まで、自費で約20キロの道を整備したという篤志家だ。道路を整備するにあたり、雨境に居を移し、75歳でなくなるまでひたすらこの道を整備しつづけたという。
スノーシェードを抜けた先にも同じようなことが書いてある看板があった。
そして、雨脚がより一層強くなってきた。
雨境という地名は、まさにこのあたりが、天気の変わり目になることがあるから。ということで雨境とついたらしい。雨の境目というふしぎな地名の由来を、身をもって体験することができた。
スノーシェードの横に、最細部を知らせる張り紙があるらしいのだけれど、雨が土砂降りになってきたので、若干の身の危険を感じ、そこを確認するのは断念した。
「牛乳専科もうもう」でソフトクリームを食べてちょっと生き返る
立科町は、このスノーシェードあたりが最細部となっているものの、雨境峠の頂上部はもう少し道を南下した先だ。
雨が降りしきるなか、進むと途中に「牛乳専科もうもう」という売店があった。
ほぼ人気のない寂しい峠道を走っていたので、こういった人のいるところをを発見すると、心底ほっとする。この地点で、標高は1530メートル。すでに丹沢の山ぐらいはある。
この「牛乳専科もうもう」のすぐ横に「鳴石」という遺跡がある。
不思議な形の石が、白樺の林の中にひっそりと佇んでいる。雨のせいで木立の向こうは真っ白になっており、異界と現世の境界のようでもある。
この鳴石は、石を打ち付けると鳴り響くことから、鳴石と名付けられたというが、古来より峠道を行き交う旅人が、旅の安全を祈るため、この石に幣(ぬさ)を捧げた祭祀遺跡だという。
この鳴石のある場所からさらに1キロほど南へ進むと、雨境峠の頂上となる。
天気がよければ、蓼科山や牧場などの雄大な景色が見られるはずだけれど、残念ながら雨で真っ白であった。
これはこれでいい雰囲気もあるけれど、やはり、晴れた日に来たかった。
雨境峠から南へさらに下ると、女神湖、白樺湖などの溜池周辺に、リゾートホテルやペンションなどの蓼科高原の観光地が広がる。
立科町の、北側のふくらんでいるところから、細いところを経て、蓼科高原のふくらんているところまで、県道40号線をひたすら南下した形だ。
位置関係を含め、もう一度、立科町の地図をふりかえって確認しておきたい。
ここまで読んだ人、全員感じている疑問があるだろう。
立科町はなんでこんなちぎれそうな形になったのか?
気になると思う。わかります、その気持ち。
ということで、みなさんの疑問を解明すべく、明くる日上田市立図書館に出向き、関連書籍を色々と調べてみた。
ちぎれそうな境界になった理由
雨境峠周辺には、ソフトクリーム屋の近くにあった鳴石などの「祭祀遺跡」が多数点在している。これは、雨境峠が「古東山道」と呼ばれる諏訪と佐久を結ぶ古い道であった証拠だ。
古東山道は、蓼科山によって分断されている諏訪地方と佐久地方を結ぶ道のひとつとして、奈良時代ごろから使われていたという。
時代は下って、中世ごろになると、蓼科山の北側にある八つの村が芦田村八ケ村とよばれる組合を作った。
江戸時代、この芦田八ケ村は小諸藩に属し、蓼科山に入会(いりあい)していた。入会というのは、周辺の複数の村が、山の中に入って、堆肥を採ったり、牧草を刈ったり、木を切って炭焼をしたりするなど、生活に必要な資源を手に入れるために、山を共同で管理するしくみだ。
さらに、蓼科山周辺は入会だけでなく、小諸藩の鷹狩場として使われ、芦田八ケ村のなかでも芦田村、茂田井村、山辺村の三ヶ村は、藩の命令で鷹狩場の見張り役として、蓼科山麓に人を常駐させていた。つまり、雨境峠の道によって、芦田八ケ村と、蓼科山は強く結びついていた。
明治時代に、廃藩置県や地租改正により、入会となっていた山林が官有となってしまい、芦田八ケ村の蓼科山麓に対する権利が一時期無くなってしまう事態にもなったが、その後、権利を取り戻している。
このころ、芦田八ケ村は芦田村となった。中山道の宿場町として栄えた芦田村であったが、鉄道の敷設で、宿場町は寂れていった。
そんななか、芦田村は道でつながっていた蓼科山麓の高原に牧場を作り、また戦後には観光開発を積極的に行い、蓼科高原は長野県屈指の高原リゾート地となった。
六川五郎右衛門が、芦田村から蓼科山山麓(大門峠)までの道路を自腹を切ってでも整備したのは、蓼科高原の開発がどんどんと進んでいたからだ。
立科町の南半分の膨らんだ場所は現在「芦田八ケ野(あしだはっかの)」という地名になっているが、これは、芦田八ケ村が開発した土地であることが由来となっている。
そして、昭和時代に芦田村は、周辺の村と合併し、立科村として発足し町となり。現在にいたる。
つまり、古来より芦田八ケ村と蓼科山をつないでいた道が、そのまま細長い領土として残った……というのが、この細長い領土の原因だろう。
さらに言うと、山の裾野に広がる自治体の境界は、裾野の尾根筋に沿って境界を引くことが多いので、細長くなりがち。というのがある。
昭和の大合併前の北佐久郡の地図をみてほしい。
蓼科山の山頂から北側に向かって、境界がきれいに細長く並んでいるのがわかると思う。裾野の尾根筋にそって引かれた境界がこのように見えるのだろう。
立科町の境界も、そんな細長い境界のひとつであったが、他の町村と違ったのは、細くなったその先につながる道と、開発した土地を持っていた。これが、この形になった原因だ……と、ぼくは思うが、どうだろう。
なにもないけど、なにかはある
立科町の細長い部分は、実際に行ってみると、なんの変哲もない山と森と道だった。
そこは、たしかになにもない山道でしかなかったけれど、よく調べると、周辺にあった石碑や巨石など、よくわからない遺物のように見えたものひとつひとつが、意味を持って結びつき「異常に細長い境界になった謎」を埋めるピースになった。
なにもない、というのはただたんに「知らないだけ」なのかもしれない。
参考文献
『立科町誌 民俗編』1995
『立科町誌 歴史編上』1997
長野縣北佐久郡役所『北佐久郡志』1915
大澤洋三『蓼科物語』1971・信濃路
小林泉,立科村一町,一町一村財産組合『蓼科山と財産組合』1957・土屋傳