ある日、高速道路を車で走っていたときのことだ。
圏央道は一面の田んぼの上を、マリオカートのレインボーロードのように華麗に縦断する。ナビに現在地が表示された。「伊左衛門新田町」
…伊左衛門!!なんともまあ古風な地名だ。でもそれだけではなかった。
「平八新田町」そして「勘助新田町」ときたのだ。
伊左衛門に平八に勘助、脳内で男三人衆がねじり鉢巻をつけてチャンコポンカ踊りはじめる。
自分の名前が地名になったらもう言うことはないだろう
名前の一部とか、名字ならまだしも、伊左衛門に平八に勘助って!!こんなに名前まんまの地名、ありなんだ、めちゃめちゃいいな!!と心が燃え上がり、思わずアクセルを強く踏んだ。
そりゃね、銅像とか、でかい墓もうれしいでしょうよ、
でも自分の名前が地名となったらもう、それは言うことなしだ。数百年の時を超えて地図に残り続け、その土地に住む人々が住所として自分の名前を書き続けるのだもの。
想像するに新田開発の功績者なのだろう。400年経った現代で、田んぼという素朴さに、でかでかと名前を冠するというギャップがまたおかしく愛おしい。
調べてみると、わたしが見つけた場所以外にも、こと茨城県南西部において「名前そのまんま+新田」という地名が多く集まっているらしい。
全人類の夢を叶えた彼らの田んぼ、今はどうなっているだろうか。伊左衛門さんたちの代わりに見てきた。
そもそもなぜ茨城県に「人名+新田」という地名が多いのか
その理由を語るに欠かせないのが、利根川の東遷だ。
約1000年前の利根川は東京湾に流れ込んでおり、たびたび江戸のまちを水浸しにしてきた。
江戸時代に行われた工事によって、現在の利根川は千葉県の銚子に流れるようになった。
これほどの一大事業、お金も時間もかかるかかる。幕府は地域の富農や名主を募ってそれぞれに事業を行わせた。そうして新田開発を率いた人々の名前が地名に残っているのだ。
①まちに残る一本松の謎 長兵衛新田(取手市)
まず最初に訪れたのは、取手市にある長兵衛新田だ。
地名辞典で長兵衛新田を調べると、「長兵衛さんが開墾成就を記念して松の木を植えた。そして植えた松の木は城根の一本松とよばれた。」という記述がある。
えーい!こういうときはお役所に聞くに限る。長兵衛新田のある取手市に、一本松公園の由来を問い合わせると次の情報を得られた。
一本松公園の台帳に「高台にあり、眺望が良いためシンボルツリーの一本松から一本松公園とした」と記録が残っている。しかしこの樹は今はもう存在しないので、長兵衛さんが植えたものかはわからない。
公園名の由来が資料に残っているのは珍しいそうだ。お礼を言って電話を切ろうとしたとき、「あっちょっと待って下さい、うちに巨木に関する資料があってですね」と職員さんがおっしゃった。巨木の資料?
巨木に関する資料に「城根団地の入り口に大きな一本松があった」と書いてある。しかしこの巨木も今は存在しない。
巨木ということは昔からあった木ということだろうか。巨木に関する資料がなんなのか気になりすぎる。
明治時代の地図と見比べてみると、当時は城根の集落の手前が十字路ではなく一本道であり、一本松公園のあるあたりが城根団地の入口のように見えなくもないような……
結論としては、それぞれの資料の一本松が長兵衛さんの植えた一本松か確証はないけれど、可能性はあるとのこと。
一本松が見つからなかったのは残念だけど、かえって謎のままの方が伝説っぽくてわくわくするな。「正確なところはわかりませんけどね」と言い添える職員さんも、こころなしか声が弾んでいた。
長兵衛新田
ロマンチック度★★★★★
歴史に名を刻むなら真似したい:
いい感じのところにみんなに愛される木を育てる
②イメチェンに驚く庄兵衛新田町(龍ケ崎市)
自分の名前を冠したまちが、しばらく帰らないうちにガラッとイメチェンしてしまったら。いったいどんな気持ちになるだろうか。
お盆に帰ってきたであろう名前の持ち主を、思わず心配してしまったのが、龍ケ崎市にある庄兵衛新田町だ。
久しぶりに帰った我が家がこんなことでは卒倒してしまう。決めた、わたしが名を地名に残せたなら、死後もお盆はこまめに帰ろう。まちを荒らすやつには化けて出てやろう。
庄兵衛新田町
諸行無常の響あり度★★★★
庄兵衛新田町の教訓;盆と正月はこまめに帰ろう
③大集合!飯沼を開拓したメンバーが勢揃い 庄右衛門新田・五郎兵衛新田・平八新田・勘助新田・伊左衛門 新田・左平太新田・孫兵衛新田・長左エ門新田
最後に訪れたのは、鬼怒川のさらに西、飯沼川である。
圧巻の人名新田の数だ。
本来は村単位で新田開発を担当するはずが、あまりに大変でお金もかかるから村では出来ないと次々にさじが投げられた。代わりに名主や富農が個人で請け負ったことから、それぞれの名前が地名に残ったのだそうだ。
退屈ささえ感じる田園風景だが、飯沼川流域では江戸時代の新田開発後も毎年のように水害が相次ぎ、耕作を諦めて土地を離れる者も少なくなかったという。
何度田んぼが水浸しになってもまちに残り、新田を守ってきた人にとって、まちの名前でもある開拓者はやはり格別の存在だ。
石碑には、長左エ門さんがこの土地を開拓し、没後は地域を守る氏神さまになったと書かれていた。
そして田園風景の描写が続く。
「境内15アールにして周辺風光明媚 東方に紫峰を望み北方遥かに日光山を仰ぐ一望千里の美田南北に展け東仁連川悠々として裾を縫う」
無事刈入れを迎えた日の眺めはどれだけ美しいことだろう。この一文に、まちのひとがどれだけこの田園風景を大切に思っているかが詰まっている。
ただ有名になりゃいいってもんじゃあない、後世人々の精神的支えとなって、まちのためとなってこそよ、と長左エ門さんに空から囁かれたような気がした。
長左エ門新田 他
まちのシンボル度★★★★★
地名に名を刻むときの教訓:まちのアイデンティティの一部となり、住人の心の拠り所であるべし
図書館のすみっこに置いてある郷土史、誰が読むんだと思っていたらわたしが読んだ
今回の取材にあたり、郷土史をいくつか読んだ。
これがなかなかおもしろい。
例えば、長左エ門さんは名字を地名につけて福田新田と名付けたかったのに、「ここらはみんな名前でやってっから」と言われて長左エ門新田になったとかとか、そんな小さなことまで書いてあるのだ。
こういう誰が読むんだという本の、誰が知りたいんだと思うような小さな情報がたまらない。新たな趣味の世界が開けたのであった。
参考:
角川日本地名大辞典編纂委員会(2011)『新版 角川日本地名大辞典』KADOKAWA
昭文社旅行書編集部(2021)『茨城のトリセツ』昭文社
鬼怒川・小貝川読本編纂会議、編集委員会(1993)『鬼怒川 小貝川ー自然 文化 歴史ー』鬼怒川・小貝川サミット会議
栗原良輔(1943)『利根川治水史』官界公論社
磯辺一博『茨城県牛久沼の生い立ちとその周辺の自然を探る』地質ニュース380号
さしま郷土館ミューズ(現:坂東郷土館ミューズ)(2015)『〈企画展〉飯沼新田物語 水との苦闘300年 豊作を夢見た先人たち』