独自進化遂げたカーオーディオ史 – 速水健朗

BLOGOS

Getty Images

かつて若者たちは、車を所有したがり、そこには恋人とのデートという目的があった。そして、それを盛り上げるツールとして、音楽を準備していた。そう、「ドライブデート」は、昭和後期から平成初期においては、今よりも特別視される存在だったのだ。そこで発展した車内音楽をめぐる当時の様相については、歴史の地層の底に埋もれる前に記録しておく必要があるだろう。

車内リスニング音楽は、いまだ通史として語られることのない、”もうひとつのポピュラー音楽”である。例えば、八代亜紀から工藤静香へと受け継がれ、その精神の一部が倖田來未に受け継がれるという流行の系譜に対して、音楽的、ジャンル的な分析をしたところで、なんの共通点も見出せない。だが、そこに「長距離トラックドライバーの歌姫」というキーワードを挟めば、おぼろげに見えてくるリスナー層の共通性がある。

または、オートバックスのようなカーアクセサリーショップの音楽コーナーに行けば、そこには街のCDショップやSpotifyで人気のプレイリストとはまったく違う音楽の序列を目の当たりにすることができる。派手なイルミネーションのパネルや大型ウーファーが並ぶカーオーディオ売り場の様相は、『BRUTUS』誌に取り上げられるミュージックバーの光景とは重なることのない空間だ。

ポップミュージックにたびたび登場した「カーラジオ」

「Car radio 流れる せつなすぎるバラードが 友だちのライン こわしたの」*1

Winkの『愛が止まらない』の冒頭歌詞。「Car radio 流れる」という冒頭の一語が、そこが車内であることと、音楽が聞こえているであろうことを想起させる。それに続く部分では、まさに恋愛がはじまろうとしている空気の変化を示している。たった8小節で物語の発端が描かれるわけだが、「カーラジオ」一語が展開する情報の圧縮率がすごい。元の英語歌詞には、一切ないフレーズなので、日本語化する際の作詞家の独創だろう。

Wink『愛が止まらない』がリリースされた1990年頃の東京 Getty Images

ポップミュージックの歌詞への登場回数において、カーラジオは他に類を見ない頻出回数を誇るキーワード、いや電化製品である。人間の移動能力を格段に拡張した車輪と内燃機関をミックスした機械と、受信した電波を聴覚情報に変換する機械。どちらも人の能力を拡張した”メディア”である。このまったく別個の機能を持つ両機械は、20世紀に発展し、われわれの生活を一変させた重要な存在であると同時に、高度成長時代の日本の輸出産業の発展を促した存在でもある。

<主要「カーラジオ」が歌詞に登場するヒット曲>
『スローバラード』RCサクセション(1976)
『甘い予感』アン・ルイス(1977)
『ラストショー』浜田省吾(1981)
『さよならは八月のララバイ』吉川晃司(1984)
『Broken Sunset』菊池桃子(1986)
『昭和』長渕剛(1989)
『あした』中島みゆき(1989)
『SUN SHOWER』島田奈美(1991)
『恋人と別れる50の方法』池田聡(1994)
『Happy Endで始めよう』大瀧詠一(1997)

国産カーラジオの誕生とカセットテープの登場

国内のカーオーディオの歴史は、1951年に始まる。帝国電波なる新興の企業が日野ルノーの乗用車用に開発した「ル・パリジャン」という小型ラジオが発売されたのだ。国産の自動車メーカーが、オール国産体制で自動車を発売できるようになるかならないかという時代のこと。当時のカーラジオは、当然のことながらハイグレードな車種にのみ搭載されていた。1960年代、テレビは一般家庭に普及し、人々がラジオ離れを始める時期だが、カーラジオはマイカーブームに沸くようになるこの頃から一般に普及したのだ。

帝国電波は、60年代になるとカセットテープを使ったカーオーディオの販売を始める。当初は、カートリッジ式の8トラカセットが車載オーディオの主役に躍り出ようとした時期もある。扱いやすさ頑丈さと値段の安さと音質という優位があった”8トラ”は、元々は、カーステレオ用を想定されて生まれた方式だったが、早送りや巻き戻しの機能がないという弱点を抱えていた。のちに業務用カラオケの世界で使われるが、カーオーディオのスタンダードにはなれなかった。なお、帝国電波は1970年に社名をクラリオンに改称。初代のアグネス・ラムをはじめ、蓮舫やかとうれいこ、原千晶など、女性芸能人の登竜門ともなった「クラリオンガール」を主催したことでも知られる。

クラリオンは現在、仏フォルシアグループ傘下となり、2021年にはフォルシアクラリオン・エレクトロニクス株式会社に商号変更をおこなった 共同通信社

現在のカセットテープ(一旦は廃れかけ、近年、世界的に復活を遂げた)として知られるコンパクトカセットは、1964年にオランダのフィリップス社が商品として発売し、のちに技術情報が無償公開されたものだ。当初は、音質が音楽には向かないとさえされていたコンパクトカセットだが、特に日本のメーカーの参入をきっかけに技術が進歩。テープの録音時間が延び、音質や耐久性が向上、価格競争により価格も下がった。そして、1970年代にレコードやラジオから手軽に複製を録音することができる装置として普及。誰もが音楽を気軽に車内に持ち込めて、自ら選択した音楽とともにドライブを楽しめるライフスタイルが現実のものとなる。

カセットテープは近年再発見され、再び人気を集めている Getty Images

エアチェック全盛時代 密接だったラジオとカセットテープの関係

カセットテープの全盛期とはどのような時代だったのか。1985年の雑誌『FM STATION』(No.18)に、当時の読者の日常生活を取り上げた記事があるのでとりあげてみたい。21歳の大学生”石原さん”のお部屋紹介のページだ。石原さんは、その3年前に15万円のミニコンポを購入している。レコードプレイヤーやアンプ、スピーカー、カセットデッキといった音楽再生のための装置をワンセットにしたものがミニコンポである。石原さんは、ここにエアチェック用のタイマーを組み込み、不在時もFM放送の録音ができるようにしている。石原さんは、FM情報誌の番組表を参考に、一週間の録音スケジュールをノートに書き写すのだという。

石原さんの趣味はエアチェックである。1970年代から80年代にかけて、エアチェックは一般的な趣味のひとつだった。ラジオから流れる音楽をカセットテープに録音する。そして、のちに編集して自分だけの編集テープを作る。こうした個人が私的に既成音楽の複製を楽しむことが”エアチェック”である。筆者も10代の時にエアチェックをおこなっていたが、あの時代、30代だった父親は、それに輪をかけた本格的なエアチェック中年だった。当時エアチェックは、それほど一般的な趣味であった。

石原さんは、エアチェックして溜めたカセットに「インレタ」でタイトル入りのラベルをつくって、整理している。インレタは、鉛筆などでこすって貼るタイプのシールで、アルファベット、数字、カタカナ、ひらがな、さまざまなフォントのバリエーションもあり、文具屋やレンタルレコード店のテープ売り場などに売っていた。石原さんの所有カセット総数は250本。大量に思えるだろうが、当時このくらいのテープを保有する者は、男女問わず(年齢も10代から40代くらいまで)いくらでもいただろう。

当時のカセットレーベル(ラベル)とインレタで作った曲リスト 写真提供
:速水健朗

あの時代、レコード店には新譜がたくさん並んでいたが、流行っているもの以外の音楽に接するのは、今よりも困難だった。旧譜、名盤が多数復刻され並ぶようになるのは、メディアがレコードからCDになって数年が経った後のことだ。それに比べれば、ラジオは、スタンダードな過去音楽にアクセス可能なメディアだった。そのため、アルバム単位で音楽を聴くのではなく、まんべんなくヒット曲を聴きたい音楽リスナー(つまり一般的な音楽ファンだが、推し全盛の時代には少数派になっているかも)も、ラジオでヒット曲を集めた”ヒットパレード”的な編集テープを作っていた。つまり過去の名作を手元に残す、好きな曲順のテープを手元に残すためにエアチェックをしていたのだ。

カセットテープ時代を彩るドライブミュージック

カーステレオが普及していく時代に重なり、70年代末にはソニーのウォークマンがヒット。複製メディアで音楽を聴くシチュエーションがリビングルームなどの室内から屋外へと拡大(ラジカセもその一要因)していくことで、音楽の中身そのものが変化しないわけがない。

カセットテープ時代のドライブミュージックの代表的作品が、1982年の山下達郎『FOR YOU』だろう。当時のレコード会社は、レコードとカセットテープの両方のメディアでの音楽のリリースを行っていた。『FOR YOU』のカセット版は、今も中古市場で流通している。劣化の速いメディアであることを踏まえると、現在も残っているのは相当の本数が流通した、つまりヒット作だったからだろう。このアルバムの表紙は鈴木英人が起用されていたが、1981年創刊のFM雑誌『FM STATION』の表紙を手がけていたのが鈴木英人だった。達郎の『FOR YOU』がヒットした前後から『FM STATION』の表紙も、アーティストの似顔絵などから「文字の看板が並ぶアメリカ郊外の街角の風景」の方向にシフトし、部数も急速に伸びたという(『FM STATION』とエアチェックの80年代』恩蔵茂、河出文庫)。互いのファン層の好みが一致し、相互に近づいた部分があったのだろう。

山下達郎『FOR YOU』のジャケットは、この時代の音楽を強く印象づけた(写真はLP盤)

カセットは、気楽に取り扱いができ、自分の好みに曲順を編集し、オリジナルのカセットラベルをつくることができる、DIY要素のあるメディアだった。市販のカセットラベルに”インレタ”で曲名のリストを書く作業は、いまの40代半ば以上くらいの人間であれば誰でも記憶しているはず。誰に見せるわけでもなく、カセットラベルに趣味を反映させるのが当たり前。つまり、音楽を聴くという消費行動の中には、クリエイティブな”発信”行為が当時は含まれていたのだ。誰に見せるでもなかったとしても、もしかしていつか誰かに見せるかもしれないという可能性は含んでいる。いつか誰かとのドライブデートで聞きたい音楽を集めたカセットテープ。これをクリエイティブと呼ばずして何をクリエイティブと呼ぶのだろう。

カセットテープからCDへ カーオーディオの主役が交代

家庭用オーディオがアナログのレコードからCDに変わった時期とカーオーディオがデジタル化した時期には、多少のずれがある。バブル期の映画『私をスキーに連れてって』の冒頭は、主演・三上博史が自宅ガレージで雪山に出かける準備の場面。エンジンをかけ、カセットデッキにテープを突っ込むとユーミンのテーマ曲『サーフ天国、スキー天国』が流れ出す。映画公開の1987年は、CDの売り上げがレコードを抜いた年だった。満を持してビートルズの全アルバムもCD化されている。だが車内空間ではまだカセットテープが主流だったのだ。

カセットからCDへ、時代は徐々に移ったものの、車載オーディオではカセット需要が根強くあった Getty Images

80年代末に、中学生だった筆者がまめにエアチェックしていた番組はFM東京(元TOKYO FM)土曜14時台の『DIATONE ポップス・ベスト10』。番組名のDIATONEは、三菱電機のオーディオブランドとして知られているが、同時に車載オーディオのブランド名でもあった。翌日曜14時台は浅野ゆう子『ゆう子のサウンドクルージング』。こちらはカーオーディオメーカーの富士通テン(現デンソーテン)がスポンサー。この時代のFM番組は、カーオーディオのスポンサードで成り立っていた。ちなみに『ゆう子のサウンドクルージング』は、ゲストが選曲したドライブミュージックを聴きながらトークをする番組だった。

バブル期のカーオーディオは、後部座席のヘッドレスト後部にもこれ見よがしにロゴの入ったスピーカーが配置される4スピーカー時代、さらにはイコライザー表示機能、コンソールのLEDなど、ビジュアル化、ゴージャス化の時代を迎えていた。パイオニアの「カロッツェリア」(1986〜)がきっかけだっただろうか、クラリオンが「ADDZEST」(1989〜)、富士通テンが「ECLIPSE」(1988〜)など、展開するブランド名も意味不明、いやゴージャスさが前面に出ていたことが伝わる。これらのブランドは、主に国内に向けたものだったが、当時、ヒットしていたカーオーディオメーカーに国産ブランドが多かったことは重要だ。自動車内の音楽再生装置は、過酷な環境への挑戦でもある。車内には、置けるスペースに限りがある。音楽を再生する空間も狭い。振動が常に存在する。電圧も安定しない。こうした条件に特化した小型の高性能機械の開発は、日本メーカーが得意とするところ。彼らは、日本を起点にしてグローバルな市場に乗り出していったのだ。日本メーカーが世界で勝利を収めていた時代と国内のカーオーディオの黄金期はおおむね重なっていた。

カーオーディオファンを夢中にさせたCDチェンジャー

当時の徒花の代表が、CDチェンジャーである。CDチェンジャーは、複数のCDを連装して長時間再生を可能にする装置だ。車載用のCDチェンジャーはマガジンを追加する方式で、6枚、12枚の多連装が可能になっていった。大量のCDを収めるために一部のカーオーディオファンは、ラゲッジ(トランク)に追加マガジンを収納し、50、100枚の多連装を実現。CDチェンジャーのスーパーインフレ時代が一瞬だけ到来した。HDDにMP3データとして取り込めるようになる2000年代になると、CDチェンジャーは消えていった。

クラリオンが当時販売していた車載用CDチェンジャー 共同通信社

カーオーディオの時代は、CDチェンジャーとLEDイルミネーションの時代を頂点に、下降線を辿る。オーディオメーカーは、いつしかカーナビゲーションを主力の製品とするようになった。発端は、1997年に富士通テンがAV一体型のカーナビを発売したことだったかもしれない。カーオーディオの象徴的なブランド名の「ADDZEST」も、いつしかカーナビのブランド名になり、2000年代に消滅。カーオーディオは、カーナビの機能の一部となり、いつしかカーアクセサリーの王様ではなくなっていた。カーナビも日本初の工業製品ではあるが、カーオーディオに比べると、いい意味での外連味やパンチ力に欠けたふつうの商品に過ぎない。

ドライブミュージック史を支えた日本のカーオーディオ

ドライブとミュージック。多くの人々は、いまでも車で音楽を聴き続けている。だが、かつての日本人は、いまよりもはるかにその結びつきに夢中になっていた。そして、国産のオーディオメーカーたちも技術や新しいアイディアをその分野につぎこんでいた。両者が結びついた奇妙な情熱的な文化はかつて存在したが、もはや過去のものになってしまったのだろうか。

Getty Images

2000年代以降に世界的にブレイクしたレゲトンという音楽ジャンルは、ラティーノの自動車改造=ローライダー文化と切り離せない。そのアンセムであるダディ・ヤンキー『Gasolina』(2004)は、ガソリンを消費する車を女性になぞらえ(擬人化し)た歌だ。アメリカ文化に影響を受け、自動車愛とエスニシティー(民族性)が重なる独自の音楽文化。日本のカーオーディオもアメリカ文化からの影響と自動車愛とエスニシティーが重なりあったものとしてみるべきなのではないか。日本の場合は、それに加えてテクノロジーメーカーの存在が加わる。日本がアメリカ文化から適度に離れ、独自の文化的な位置をとる中で生まれた何か。それが日本のカーオーディオ文化であり、日本人のドライブミュージック史なのだ。

*1(日本語歌詞、及川眠子。オリジナルはカイリー・ミノーグ『Turn It Into Love』だが歌詞の中身は無関係)」

タイトルとURLをコピーしました