みずほ銀行だけが障害を起こす訳 – PRESIDENT Online

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社長、頭取、会長がいっせいに退陣

「グループトップとして最大の責任を担う私がけじめをつけるべく辞任することが、みずほにとって一番いいと判断した」


記者会見するみずほ銀行の藤原弘治頭取(右)とみずほフィナンシャルグループ(FG)の坂井辰史社長=2021年11月26日、東京都千代田区 – 時事通信フォト

みずほフィナンシャルグループ(FG)の坂井辰史社長は、こう言い残して辞任を決断した。2月から8度にわたるシステム障害を起こし、金融庁から業務改善命令を受けたみずほ銀行の責任問題は、FGのトップ辞任を含む経営陣の刷新で決着した。坂井辰史社長、藤原弘治みずほ銀行頭取は2022年4月1日付で辞任、佐藤康博FG会長も同時に退任し、6月下旬に取締役を辞す。

大規模なシステム障害の始まりは2月28日、みずほ銀行の全国のATM(現金自動預け払い機)のうち約8割にあたる4300台が稼働しなくなった。キャッシュカードや預金通帳を取り出せなくなった顧客取引は累計で5244件に達した。その後も3月3日と7日には一部のATMやインターネットバンキングが使えなくなったほか、11日夜から12日にかけて外国為替のシステムで生じた不具合で263件の送金手続きが滞るなど、ほぼ2週間で4回のシステム障害が続いた。

金融庁はすぐさまみずほに検査に入ったが、この時点ではまだトップの辞任は必要ないのではないか、との認識が庁内では優勢だった。しかし、その後もみずほのシステム不具合は9月まで断続的に発生。金融庁検査は異例の8カ月にわたった。

なぜ、みずほ銀行だけが障害を起こすのか

みずほ銀行は発足直後の2002年、東日本大震災直後の2011年3月にも大規模システム障害を起こしている。10年前の2回目のシステム障害時には就任2年目の富士銀行出身の西堀利頭取(当時)が辞任に追い込まれた。当時、この人事に関与した金融庁幹部は「もう一度、(システム障害を)起こしたら、野球に例えるなら3振・バッターアウトになりますよ」と因果を含んでいたほどだった。

銀行は巨大な社会インフラである。「システム障害は社会問題に直結するだけに万全であって当たり前」(メガバンク幹部)でなくてはならない。だが、同じメガバンクであっても三菱UFJ銀行や三井住友銀行では大規模システム障害は見られない。何故、みずほ銀行だけシステム障害が繰り返されるのか。原因を解明し、根本的な改善策を講じるためには、その誕生時にまで立ち返った企業文化の検証が必要だろう。

みずほは2000年に都市銀行の第一勧業銀行と富士銀行、長信銀であった日本興業銀行の3行が統合して誕生した。まず1990年代後半に第一勧銀、富士の2行が急接近したのが始まりだ。ともにバブル崩壊後の不良債権処理に苦しみ、再編に活路を見出そうとしていた頃だった。「両行は安田信託銀行(現みずほ信託銀行)を結節点にして急接近した」(みずほ銀行元役員)とされる。そこに分け入ったのが日本興業銀行だった。

「3行が一緒になれば世界一の銀行が創れる」

1998年に日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が相次いで倒れ、次は興銀の番かと市場の圧力は高まっていた。すでに長短金融の分離行政は解かれ、長信銀という枠組みは制度的に行き詰まっていた。そこで興銀の西村正雄頭取(当時)は安倍晋三氏の叔父という政治的な力も駆使して第一勧銀の杉田力之頭取、富士銀行の山本惠朗頭取に統合を持ち掛けた。「3行が一緒になれば日本一、いや世界一の銀行が創れる」というのが殺し文句だった。

1900年、明治の殖産興業を支える特殊銀行として設立されたのが興銀である。「工業の中央銀行」と称され、戦後は金融債で資金を調達し、重厚長大企業への長期資金の供給を行い、日本の高度成長を支えた。新日本製鉄や日産など日本を代表する大企業の再編を陰で差配したのも興銀だった。「天下国家を論じる」のが興銀マンの伝統だった。

しかし、高度成長期も過去のものとなり日本経済が成熟する中、興銀をはじめとする長信銀の存在意義は急速に失われていった。そしてバブル崩壊でその終焉は決定的なものとなった。1990年代後半に入り、制度的な行き詰まりと不良債権の重みに興銀は押しつぶされる寸前だった。危機に瀕(ひん)した興銀は第一勧銀と富士銀行の統合に活路を見出そうとした。そして西村頭取は1999年夏、みずほ誕生をものにした。みずほは一面では興銀救済の枠組みであったと言っていい。


※写真はイメージです – iStock.com/ilkaydede

「どこのシステムを使うか」が主導権争いの火種に

3行統合で誕生したみずほ銀行は上場企業の約7割と取引を持ち、約2400万の個人口座を誇る巨大銀行である。「資産規模トップの第一勧銀」「実質的に邦銀トップバンクであった富士銀行」「天下国家を体現する興銀」の3行が統合して誕生した銀行であるため、広範な営業基盤は当然である。だが、このそれぞれ頂点を自負する3行が一緒になったことで、皮肉にも内部の主導権争いは長くみずほの宿痾(しゅくあ)となっていく。

3行の統合は持株会社方式とされ、当初は持株会社であるみずほホールディングスの傘下に、第一勧銀、富士銀、興銀の3行がぶら下がる形態が採られた。歴史も企業文化も規模も異なる大手銀行、しかも3行が統合することは容易なことではない。「行内で使われる用語そのものが違っていた」(みずほ銀行OB)ほどだった。

しかし、悠長に時間をかけられない課題もあった。システムの統合である。銀行は装置産業である。3行のシステムが併存したままでは、コスト面をはじめ統合効果は望めない。システム統合は焦眉の急となっていた。だが、具体的にどの銀行のシステムにサヤ寄せするかは難題だった。

基幹を司る勘定系システムは第一勧銀が富士通、富士銀が日本IBM、興銀が日立製作所製であった。銀行同様にシステムを担うベンダーも日本を代表するコンピューターメーカー、主導権争いは熾烈を極めた。いずれの銀行のコンピューターメーカーが勘定系システムを握るかは、銀行の主導権争いの写し鏡の様相を呈した。