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「しょっちゅう人手不足になるところでは働くな」。
上掲リンク先は、いくつかのバイト体験を例示しつつ、人手不足のところには何かしらそうなる理由があるから働くな、それは地雷だ、といったことを教訓的に記した文章だ。文章の前のほうに「バイトだろうが正社員だろうが、これはたぶん同じだと思う」と書いてあるので、一般論として読み取るよう書かれているのだろう。
では、この文章を一般論として読み取っていった時、どんな展望が開けるだろうか。
この文章についたはてなブックマークには、同じ現象があてはまりそうな複数の例が挙げられている。また、いつも人手を募集している業種や企業に対して警戒感を持っている人が少なくないことも伺われる。
ところで、人手不足なのは企業だけではないし、仕事上のことだけでもない。
世の中を見渡せば、私生活の領域においても人手不足を訴える声が聞こえる。もちろんそうした声は「人手が足りません。うちで働いてください」といった形式をとってはいない。同好会やサークルのメンバーを募集するメッセージ、友達や相互フォロワーを募集するメッセージ、パートナーを求めるメッセージといったかたちをとっている。
もし、同好会やサークルのメンバーが満杯なら、もし友達や相互フォロワーが十分なら、もしパートナーが見つかっているなら、それらのメッセージは発せられなかったはずである。それか、不足していた時期にだけ発せられた、一時的な表明に過ぎなかっただろう。だとしたら、ずっとそうしたメッセージを出している側というのは、単に社会関係が不足しているだけでなく、社会関係が続かないような要素があるのではないか……と、読みを働かせる余地が生まれそうである。
そして訳あり求人や訳あり不動産が定点観測によって浮かび上がってくるのと同様に、いわば、訳あり個人もまた、定点観測をとおして浮かび上がってくる。少なくともそういう読み筋を働かせる余地がある……ということにならないだろうか。
いまどきの社会関係は、私生活の領域でも雇う側と雇われる側の関係に案外似ている:つまり、お互いの自己選択と双方の同意にもとづく限り関係が持続し、双方の同意が維持できないなら関係は持続しない。だから人がなかなか定着しない職場や企業が慢性的な人手不足に悩みやすいのと同じように、人がなかなか定着しないサークルや個人も慢性的な人手不足、言い換えれば社会関係の乏しい状態になってしまう。でもって、人が定着しやすい企業や職場があまり正社員やバイトを頻繁に募集しないのと同じように、人がよく定着するサークルや個人は社会関係が足りているからあまり新しいメンバーを募集したり探したりしない。
上掲リンク先の一般論を少し拡大して娑婆に適用すると、こんな見立てがずんずんと立ち上がってきてしまう。
なら、どうすべきだろう。
ここまで書いたことは、他の人が書いた一般論を借用し私が勝手に拡張してみた、キメラのような思考実験に過ぎない。が、この思考実験的な見立てが娑婆に適用できると想定したうえで、対策を考えてみたい。
まず常識的な対策として、いつでも募集のメッセージを出さざるを得ない側は、みずからに人が定着しないこと・離れていくことを顧みて、問題のある箇所を見つけて修正していく……という案がある。
表向き、これが正攻法の解決であるようにみえるが、実際にはできない場合も多い。いつも人手不足の職場が困った社員やバイトの存在を簡単にはどうにかできないのと同じように、個人も、みずからの問題を顧みて、問題のある箇所を修正できないことは多かったりする。顧みること自体が困難であることもあれば、修正することが困難な場合もある。そもそも、正攻法の解決ができる職場や土地やサークルや個人はやがて解決をとおして人手不足ではなくなり、人材市場においても、人間関係市場やパートナーシップ市場においても、じきに不可視化されていく──この考え方をそのまま思考実験していった場合、「いつまでも正攻法の解決がはかれない職場・土地・サークル・人物だけが市場で売れ残っているはずだから、ずっと市場で売れ残っているプレイヤーにはなにかしら解決困難な問題がある」という読みができてしまうことになる。
常識的な対策とはみられないけれども実際によく行われるのは、人が定着しないこと・離れていくことを前提とした生存戦略だ。どんどん雇用しどんどん退職していく職場などはその好例だろう。ほとんどの人が辞めざるを得ないような過酷な環境でも、たとえば賃金が高めであるとか、そういった好条件を併記すれば少なくとも人は寄ってくる。私生活の人間関係の場合も、人目を惹く長所を持った人は社会関係の維持しにくい性質がいくつかあろうとも、短い社会関係をぐるぐる回すことで一応なんとかなっていることがしばしばある。
対策その3。社会関係の不足をあまりにも露骨に示さないこと。社会関係の不足も深刻な問題になり得るし、深刻さの度合いが増すと余力がなくなってしまう危険性があるが、余力があるうちなら、自分の見せ方を工夫する余地があるかもしれない。ここまで書いた読みが娑婆で広く用いられているとするなら、不足を露骨に示し過ぎるのは、うまい手ではない。社会関係を求める声のボリュームやトーン。頻度には注意を払う余地があるだろう。
対策その4。いや、これは対策と言えるものではないかもしれないが、本当は、コネクション(コネ)がとても重要なのだと思う。冒頭リンク先についたはてなブックマークのなかに、こう書かれているものがあった。 これによれば、「人が定着しやすい職場がなかなか募集を出さず、市場において不可視化していくのは、たまの求人も社員のコネ(悪い意味じゃなく)で埋まるから」だという。社会関係においても同じく、たまの求人が当人たちのコネによって埋まっていくと考えるなら、とにもかくにもコネを大切にすること肝心、コネがコネを呼ぶという意識を持っておくべき……と考えざるを得なくなる。
そうだとしたら、コネというものを、つまり既存の社会関係というものをどう取り扱うべきか、無碍にして構わないものかが問われるということになる。だとしたら。
だとしたらだ、地縁や血縁のしがらみがなくなり、人間関係の切り貼りが意のままのようにみえるこの社会でも、結局、地縁や血縁にかわるしがらみからは自由ではなく、コネをコネたらしめる方法論、しがらみを制御するための方法論の優劣が問われる点は同じと考えざるを得ない。でもってこの社会ですら、地縁や血縁をメリットとして有している人間が若干有利になるわけだから、たとえば田舎から大都市圏に出てきたような根無し草はやや不利といえるのだろう。
現代社会の便益により、私たちは独りでも生きていけるような社会的体裁のもとで暮らしている。けれども、その現代社会で有利を取り、不利を避けるには、やはり人の輪に入り、コネと呼べるような社会関係を築いていくための諸力が肝心なのだと思う。もちろん昭和以前と比較すると、そうした社会関係を築く諸力の文法構造には違いがあるのだけれども、ともあれコネは大切だという印象に、「しょっちゅう人手不足になるところでは働くな」からスタートして着地した。 Source