語学を学ぶというのは、趣味としては万人におすすめしやすい部類に入ると思う。穏健で文化的、知的好奇心が満たされ、大したお金をかけなくても長く楽しめるところがいい。これでさらに、実益にもつながれば言うことなし。そう、例えば中華料理のメニューに使われている中国語の漢字を学ぶとか。
深遠なる中華炒めの世界
おれが以前から秘かに興味を持っている語学といえば、アラスカ先住民文字、エスペラント語、宜蘭クレオール、ゲール語、モンゴル文字など、日常生活で役に立つ場面がきわめて少ない(趣味性の高い)言葉ばかり。それらと比較すれば、10億人が話す中国語を勉強すれば圧倒的な実益が見込めるだろう。
特に「料理分野」なら、最近は日本の街中でも生身の中国語に触れる機会がそれなりにある。池袋や西川口は日本人向けにアレンジされていない中華料理屋=「ガチ中華」の街として有名だけど、いま全国的にこうした全力投球の中華料理が体験できる街が注目されつつあるからだ。
先日、そのうちの一軒の料理店でメニューを眺めていたら「炒め物」のページにたいそう興味をひかれた。
中華料理メニューの基本的な命名規則の一つに、材料+調理法というものがある(例:炒+飯=炒飯)。なので上画像の火へんの漢字は調理法を示すものだと思うが、日本語にするとぜんぶ「炒め物」と訳されてしまうようだ。
「料理名など難しく考えずとも美味ければよろしい」という考えもわかる。一方でそれって、少しもったいない気もする。調理法の漢字が峻別できれば単なる「中華炒め」よりも、深いところで料理を理解できるはず。文字を学ぶことで、いっそう楽しくおいしく本場の味を楽しめるというものだ。
ということで。張り切って勉強してまいりましょう、中華料理の火へんの漢字たち!
基本の「炒」「爆」「炸」
学びを先導してくれるのは、プロの中華料理人 田淵雅圭さん。大阪市内で3店舗の中華料理店を営み超多忙のなか、火へんの漢字を解説してほしいという訳の分からない相談に応じてくれた、とても気さくな方。
今日はよろしくお願いします!勉強しにくるのに丸腰という訳にもいかないと思い、中華料理の辞典で一応予習してきましたが、見たことないのが山のようにありますね、火へんの漢字…!
取材を受けるということで、ぼくも改めて少し勉強しなおしてきました。今日はよくメニュー名に登場するものに絞ってお話していきましょう。この中なら炒・爆・炸、あとは烤・烧あたりですね。
おお、炒・爆・炸は日本語と字形も同じですし、中華街とかで見覚えありますね。辞典だと「炒:炒めること」、「爆:強火で炒めること」みたいな説明でピンときませんが、これってはっきり違うものなのでしょうか?
基本的に中華料理の調理法は、素材の個性をうまく生かすために多様になっています。炒や爆はどちらも基本的に炒め物ですが、素材の風味を生かしたいとか、食感を楽しんでほしいとかで使い分けされますね。そのへんは、実際に調理しながら説明します。
ついでに炸の料理もつくりましょう。炸の意味はシンプルに揚げ物と思ってもらってOKです。「炸大腸」がホルモン揚げ、「炸春巻」が揚げ春巻き。わかりやすいですね。
炸裂の炸。爆発の爆。日本語ではややバイオレンスな雰囲気を漂わせるこれらの漢字で、どんな料理が仕上がるのだろうか。
いざ進めやキッチン
たいていの中華料理はこの鍋でつくれてしまいます。今日の三品もほぼ中華鍋だけでいきますよ。
油を使う料理では調理の前に大切な儀式がある。大火力でがんがんに熱した鍋にたっぷりの油を注ぎ、鍋全体に油をいきわたらせる。滑鍋と呼ばれる技法だ。
シンプルを極めたこの料理の材料はこれだけ。いよいよここから炒。GIFでご覧ください。
炒は炒め物の基本ともいうべき技法。続いては爆の調理法を見せてもらう。同じ炒め物でもどう違ってくるのだろうか。
爆の場合、炒とくらべて油の量はかなり多くします。温度も220℃くらい。
大きなお玉で1杯2杯とすくい入れた油は鍋底から5cmほどを満たしており、とても炒め物の油量には見えない。温度だって天ぷらでも揚げ温度は170℃から180℃くらいのはず。コォォォォと不気味に音を立てる中華鍋が、巨大な熱エネルギーをたたえているのがわかる。
加熱時間は一瞬ですよ。
とまどっているうちに、羊肉はさっさとザルにあけられた。加熱したのはほんの15秒ほど。たしかにこの時間なら、揚げ物ではなく炒め物の範疇だというのもわかる気がする。時間が短い分、高密度のエネルギーで瞬間的に火を通す。まさに爆発的な調理法だ。
羊肉ってものによっては臭みがありますよね。爆で調理すると、その臭みがさっと取れるという利点があります。また一般的に、肉は長く火を通すと硬くなってしまいますが短時間ならそれが防げる。内臓とかジビエみたいな素材には特に適した調理法だと思います。
爆の工程はこれで完了だけど、調理はもう少し続く。ねぎの青いところやトウガラシなどで即席の香味油をつくり、羊肉を戻し入れる。
さらにねぎの白いところも加えて仕上げにかかる。
じゃあ最後に炸いきますね。先ほどもお話したようにこれは基本的には揚げ物の技法です。
この料理は音が大事です。いまはじゅわじゅわって音がしますよね。ひき肉からどんどん水分がでている段階で、水蒸気があがっています。
3分ほど炒をしていると、次第にパチパチッと油のはぜる音が聞こえてきた。
炸の字がつくメニューは普通は揚げ物料理と思ってもらっていいのですが、炸醤麺は調理の過程でひき肉を揚げる工程があるため炸の字が使われています。炸が本質的に油で揚げる技法であることを説明できる面白い例かと思い作ってみました。
衝撃の「葱爆羊肉」
田淵さんによる炒・爆・炸のスペシャル定食、さっそくいただきながら、調理法の要点をまとめていきましょう。
何ですかこの一品は。うますぎる…葱爆羊肉たべるために週イチで通わせてください。
実は葱爆羊肉と炸醤麺は、いま店のメニューにないんですよね。
そんな…
「烧」に気をつけろ
ごちそうさまでした!取材忘れて、恥ずかしげなくもりもり完食してしまいました!
いえいえ。いい顔で食べてもらって嬉しいです。
先におっしゃっていた「食材の個性を生かすために調理法が決まる」というのがよくわかる三品でしたね。ついでに、冒頭で炒・爆・炸と並んでよく使われると説明のあった、烤と烧についても確認させてください。
上のメニュー写真のように、直火焼きをさす。必然的に串焼きスタイルをとっている料理が多い。
烧のほうは「煮込む」と辞典にありますね。
そうですね。煮炒めというか、揚げ焼きみたいなのも含まれますが、そんな感じです。
あれ、烧って日本語の焼と同じ字なんですか??
日本語の焼くとはずいぶん違うなという気もしたけど、考えてみれば豚のしょうが焼き、すき焼き、焼き鳥の「焼き」はそれぞれぜんぜん調理法が違うので、まあそんなもんかと思うことにした。とりあえず中国語の烧は、しょうが焼きとかすき焼きスタイルの「焼き」なんだと覚えておけばいいと思う。
今日紹介した漢字が組み合わせでメニュー名になっているケースもありますよ。爆炒雞胗(鶏の砂ずり)とか、爆炒牛肚(牛の胃袋など)とか。葱爆羊肉でもそうでしたが、一品のなかで爆と炒、両方の技法を使うメニューです。
街でこういうメニューも見つけたんですが、これも名前からどんな料理かわかったりしますか?
爆烤というのは初めて見ますが…串に刺さっているから基本的には直火焼きの料理ですね。羊腰儿は羊の腎臓です。おそらく、串を打ったまま爆で臭みとりの処理をしておいて、注文が入ったら烤でパリッと温めて提供するのかな。
な、なるほど…合理的な解説!!文字を学べば中華料理のことがわかるのではという目論見で取材をはじめたが、さすがプロ。初見の料理でも文字からここまで鮮やかな推察につなげるとは、素直に感動してしまった。
「燜」は一文字でレシピの情報量
さて。そろそろまとめのお時間です。炒・爆・炸・烤・烧。メニューによく登場するこれらの漢字がなんとなくイメージできるようになったところで、せっかくの学びを忘れないよう、下図のように整理してみた。
この分類法は、全ての料理は油・水・空気のいずれかを介して熱が伝わることで調理されるという前提に立ち、いかなる調理法もこの四面体のなかにプロットできるというもの。底面に近いほど油・水・空気の関与度が高く、例えば火と油をむすぶ「炒め物ライン」上では、下に行くほど油量が多いことが表現されている。
この四面体、ユニークに視覚に訴えてくる、なかなか面白い図だと思う。思うのだけど。大きな四面体のなかに漢字がたった5つだけがプロットされているというのがなんともさみしい。もっとこの図を力いっぱい活用してあげたい。せっかくなので冒頭で紹介した、いかめしい火へんの漢字たちも四面体図に当てはめてみることにした。
これらの漢字は、辞典やネットで一つずつ意味を確認したわけだけど、辞典によりけり表現がかなり異なっていたりしてなかなか苦労した。一部は無理やり図に当てはめたところもあるので細部の正確性は目をつむってもらいたいが、雰囲気だけでも伝われば。
どうです、なんだかワクワクしてきたでしょう。人間、未知の情報の束が整然と並んでいると気分が高揚するものですからね。
先程までの図とくらべて印象的なのは、火と水をむすぶ「煮物ライン」がだいぶ充実しているなということ。一方、意外に「炒め物ライン」は伸び悩んだ。高々と炎をあげて鍋を豪快にふる炒め物こそ、中華料理のイメージだったのだけど。といっても煮物ラインの漢字は、「まず炒めてからソースで煮詰める」みたいのも多いので、このあたりが日本語ではまるごと炒め物にカテゴライズされることになるようだ。
四面体図の全体像を眺めるのは、壮大な中華料理の輪郭をなぞるようで興味が尽きないけど、かたや一つ一つの漢字にじっくり向き合っても驚きがあって延々楽しめる。最後におれのお気に入りの漢字をいくつかご紹介しておきます。
なにそれうまそう。中華料理では味とともに香りがひじょうに重視されるというが、この技法を簡潔にあらわす一文字があることに中華料理人の執念が感じられる。
中華料理にはとろみが欠かせない。あれは料理の温度にこだわる料理人が、アツアツの状態を維持するために発達させたのだという説があるそう。当然、とろみ専用の文字が用意されているわけです。
でたっ、とろみ!「小さく切った」、「複数の材料」といちいち細かく指定されているところも頑固で信頼がおける。
いや、一文字の情報量よ。レシピ本でいえば、①〜④くらいまで番号が振られてしかるべきところだ。もし燜の概念が日本語にあったら、肉じゃがは「牛肉、じゃがいも、にんじんなどを燜する」でだいたいOKになる。
さらにやばいことに、燜とほぼ同じ意味の字がもう一つ用意されている。きっと繊細な違いがあるのだろうな、奥深すぎる。
いったんこれで、中華料理の深淵をちらりと覗き見る小旅行は終わりとしたい。ただし。きりがないので触れられなかったけど、当然ながら中華料理の調理法は火へんの漢字に限定されない。日本語とだいたい同じ用法の煮・蒸・煎もあるし、烹・川・貼・滷・涮などもみんな調理法を表す漢字だ。
川…?
ちょっと気になるけど、このあたりさらなる楽しみシロとして、将来にとっておきたいと思う。
趣味の補講
一見して中国語の四面体図と違うのは、焼き物ラインの多様さ。いかに上手に裸火を操り、肉を美味しく焙り焼いてやろうかというヨーロッパ文化(雑なくくり!)の信念が垣間見える。その一方で、炒め物と揚げ物は、ほぼFry一択で通してしまう無頓着さが清々しい。英語表現と比較すると、やはり現代中華料理というのは、油と中華鍋の使い方を変態的なまでに洗練させたところに真髄があるのだろうな。
<ご協力いただいた田淵さんのお店>
台灣食堂 南船場本店
大阪メトロ本町駅 徒歩5分
https://www.facebook.com/taiwanshokudou/
<参考文献>
食べる中国語(三修社、広岡今日子)
中国料理小辞典(柴田書店、福冨奈津子)
中華料理用語辞典(日本経済新聞社、井上敬勝)
料理の四面体(中公文庫、玉村豊男)