日本人は人に決めてもらわないと、自信を持てない傾向が強い。自分の頭で論理性を保った思考による判断が苦手で、無意味なルールが定められても疑わず受け入れがちだ。特に、安心だとか平等だとか平和という誰も反対できないキャッチフレーズをベースにしたルールには異議を唱える事を憚る。埼玉県の『エスカレーター条例』も同様と断じざるを得ない。
日本エレベーター協会報告では、2018~19年のエスカレーター事故が全国で1550件となっている。更に、その内訳は、手すりを持っていなかったり、歩行中につまずいたりして転倒する「乗り方不良」が805件(51.9%)となっている。
この1550件、或いは805件という数字をどう考えるか。勿論、安全第一の観点で対策を打つことに問題性がある筈がない。しかし、優先順位はどうなのだろう、また、歩行禁止による弊害が総合的に検討されているのだろうか。
ちなみに、交通事故は現在、過去最高の4分の1まで死亡事故を減少させるまでに至っているが、それでも死亡事故で4000人規模だ。その状態でも車を動かすな、自電車で走るな、とは決して言わない。
階段の事故も相当レベルで多い。統計データとしては様々な観点があるが、不慮の事故として死因のトップ10に入る程多いのだ。企業の安全対策、労災防止観点でも、階段の転落は絶対に見逃せない項目である。だから、下り優先、手すり設置などの対策が実施されるが、それでも階段を歩くなとは、絶対に言わない。
それでもエスカレーターを歩行禁止としたのだ。果たして歩行禁止でどれだけ安全性が高まるのか、その効果数値も発信されずに、だ。その状態で、禁止行為に対して罰則の必要性に関して議論が為されている。何でも直ぐに禁止、直ぐに罰則、これが正常と言えるのだろうか。
エスカレーターの安全性を体感的にヒヤリハットで考えると、『降り口で立ち止まられての衝突』『隙間に挟まれてしまう』『ベビーカー、手押し車の取り扱い不備』『カバンなど幅広く保持され右側通行者が衝突、或いは避けての転倒』『左側乗降者の急な右側への移動での接触』『乱暴な通行者との接触』『スマホ見ながらの注意不足通行による接触』等が挙げられる。他にもあるかもしれないが、歩行禁止でこのどれだけが防げるのだろうか、他にもっと簡単で有効な方法があるのではないかと疑問である。歩くことが問題ではなく、乱暴に歩く事が危険であり、それはエスカレーターに限った話ではない。また、降り口での立ち止まりなどは、歩行禁止で寧ろ増える可能性は無いのだろうか。
元々、エスカレーターの右側を空けるのは、『急いでいる人の為』という達成すべき目標があった。現実に急いでいる人が存在する事は否定できないのに、公共の場では急ぐな、急ぐことが悪だ、罰する、と言って社会的に受け入れられるのだろうか。歩くことを禁止したとして、急ぐ気持ちを禁止する事など出来様が無く、余計にイライラ、ストレスは溜まるのではないだろうか。
車は、追い越し車線を急いでいる車が追い越しの為に使う。追い越し車線を無くせばいい、追い越しを禁止にすればいいでは社会環境は保てない。禁止すべきは『煽り運転』であろう。エスカレーターも同様では無いのだろうか。そして、禁止行為を明確にして、過失であろうとも注意対象とするレベルの話ではないかと考えられる。安全対策として打つべき手は、歩行禁止ではないだろう。
どうしても、歩行禁止にして、急ぐ人の廃絶を目指すならば、両側に立てば良いだけだ。何故か、多くの人は急いでいる人がいなくても、左側にしか立たない。どんなに混雑していても右に立たず空けている。こんな無駄をして、ラッシュ時の乗り口付近の混雑という危険な状態を生み出している。同時にその混雑は、急ぎたい人の通行を阻むパラドックスに陥っている。全員が左右バランス良く立てば、輸送能力が倍加し、混雑も少しは解消する。まずは、そちらを是正するべきでは無いのだろうか。
世の中には、目的を忘れてしまい、守る事そのものが目的化してしまっている様なルールが多数存在する。それらは、本来の目的達成が覚束ないだけではなく、弊害としてのリスクを生み出す。それどころか、そういうルールが乱立する事で、本当に守る必要のあるルールの優先順位、重要度が相対的に低下してしまう。
何の為にルールを守る必要があるのか、その事を一人一人が論理的に思考し理解する事で、現実には様々なイレギュラー事象が発生する社会活動においても、ルールの目的が達成できる。思考停止する事は、リスクを増大させる最大の要因なのだ。