堀江貴文氏「コロナ禍は遊べ」 – PRESIDENT Online

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コロナ禍の自粛要請で空いた時間は、どのように過ごすべきなのか。実業家の堀江貴文さんは「資格の勉強にあてるのはムダだ。それよりも遊びの方が、はるかにビジネスチャンスにつながる」という――。

※本稿は、堀江貴文『破戒のススメ』(実務教育出版)の一部を再編集したものです。

実業家の堀江貴文さん – 撮影=柚木大介

準備が整っているほど「想定外」のときの落胆は大きくなる

コロナウイルスは感染力が強く用心が必要ではあるけれど、現在の自粛要請は行き過ぎで、不要不急を犠牲にするなど噴飯ものだ。

無警戒でいい、とは言わない。感染対策はしっかりしておくべきだ。だが、政治家を含めた社会の大部分の人たちは、きちんと科学知識を学ばず、ペスト禍の再来のようなパンデミックを恐れている気がする。

恐怖感の蔓延を引き起こしたのは、リテラシー不足もあるけれど、一番の要因は「ネガティブな未来思考」だろう。日本人が農耕経済に縛られていたころの、悪しき名残だ。

学校でも家庭でもビジネスの場でも、未来を考えることが一人前の大人であり、大切だと説かれる。だいたいトラブルや事故など、ネガティブな事態を想定してのことだ。きたるべき未来に備えて、保険をかけたり、事前の準備が奨励される。

未来思考は、リスクを回避するためのマネジメントの基本だという。

けれど、おかしくないか?

未来思考は、意識が「いまここ」にない状態だ。

つまり、起きてもいないトラブルを想定した未来を、意識上に「予約設定」している。それが人の幸せに結びつくとは、どうしても思えない。

未来を予測しようとか、安全にしていこうと事前準備することに、メリットはこれっぽっちもない。あるのだったら、教えてくれないだろうか。病気とか裏切りとか、想定にない障害や躓きが現れるのは当たり前で、準備がきちんと整っているほど落胆は大きくなる。

不要不急を我慢しても未来の不安はなくならない

繰り返すが、未来を想像して、いいことは何もない。行き当たりばったりが、一番落胆が少なく、生産的に動けるのだ。

「知らない明日を迎えることが、人生の醍醐味である」と、思い出してほしい。明日、想像していた通りの安全な未来が訪れたとしても、ちっとも楽しくないだろう。

想像通り、安心感に満ちた人生は、ケガはしないかもしれないけれど、つまらないものだ。

過去に派手に転んだり、傷を負ったことを、あなたは後悔しているだろうか?

貴重な失敗体験として、苦境から立ち直るのに役立っているはずだ。

未来を想像するのは、不安の種を育てることだ。

コロナ禍でも、ほとんどの人たちは「感染したらひどく苦しむ」「治療法はないから死ぬかもしれない」「周りから村八分にされる」という、未来の可能性に怯えている。感染予防に努めればいいだけなのに、起きていないネガティブな事態を自分で決めつけ、右往左往しているのだ。

心配したいのが好きならいいけれど、少し冷静になってみよう。不要不急を犠牲にしたって、未来の不安はなくならない。不安を消すために何かを我慢して、不安がパッとなくなった経験を、誰か持っているだろうか?

未来にではなく、機会損失にこそ怯えてほしいと思う。不要不急を減じて、新しい楽しみに出会うチャンスを失う方が、恐ろしいのではないか。

後のことを考えない方が未来は豊かになる

未来思考と不要不急は、相性が良くない。どちらかを優先すれば、どちらかが邪魔になってくる。選ぶべきなのは当然、不要不急の方だ。

未来のネガティブな失敗ばかり心配して、リスクから逃げるように暮らすのと、とりあえず後のことは考えずに、やりたいことを望むままやってみる。豊かな未来づくりに役立つ思考は、どちらか? 考えるまでもないだろう。

2021年7月の段階でワクチン不足が起きるほど、ワクチン接種は急速に進んでいる。ワクチンの副作用リスクは根強く問われているが、ゼロリスクはありえない。いずれにしても、遠くないうちに日本では全体免疫を達成できるだろう。コロナ前の社会を、年内には取り戻せるかもしれない。

あえて言うが、僕はコロナ前・コロナ後という区分が嫌いだ。コロナウイルスは僕たち人類と共に、太古の昔から地球上に存在していたのだ。突然現れた怪物ではない。区分があるとしたら、「我慢強制前」と「我慢強制後」だ。

僕たちは我慢を強いられたことで、不要不急の必要性をあらためてたしかめただろう。これからは、不要不急の社会への脱出だ。

ワクチン接種の成功により、コロナと共存する社会が、リスタートするのだ。

人間の身体はほとんどが不要不急のDNA

コロナ禍の広がっていた2020年の夏に、解剖学者の養老孟司先生が専門誌で論じている。ヒトゲノムの4割は、ウイルス由来だ。その4割が、どのような機能を持つのか、まったくの不明らしい。

ゲノムの中で機能が明らかにされているのは、全体の2%程度。つまりヒトゲノムは現代科学の分析では、ほとんどが不要不急のジャンクDNAで構成されているというのだ。ジャンクの方が量的には、全体を占めている。「要であり、急である」ことが、実は生物学的には例外なのだと、養老先生は述べている。

いまはジャンクで無用、でも後々に必要とわかる。それが生物界では当たり前の認識だ。何の役にも立たないと思われていた体内機関や細胞が、研究によって命を支える重要なものだったと判明する例は、後を絶たない。

人間社会も同じだ。不要不急は、感染予防のために禁止されるべきではない。むしろ健全で健康な営みを保つのに、最も貢献している。

自粛の同調圧力を打ち破り、不要不急を楽しむ運動を取り戻そう!

そうすれば、巣ごもりで錆びついた社会は、本来の機能を再起動させるだろう。