20年前もここにいた
2月10日は、ぼくの30才の誕生日だった。
長かったような気もするし、短かったような気もするこの30年。でも、そんなあいまいな感想じゃなくて、せっかくだからその長さを実感したい。
誕生日の1日で。
※2006年2月に掲載された記事を、AIにより画像を拡大して加筆修正のうえ再掲載しました。
自分がかつて過ごした場所をさかのぼろう
30年間、振り返るとあっという間だ。でもそれは、過去にあったいろいろなことを忘れているからかもしれない。
ここまでのあいだ、住む場所も変わったし、所属する場所も学校から社会へと変わってきた。それらの場所へ、年代をさかのぼりながら実際にたずねていくのはどうだろう。30年の長さを少しは実感できるような気がする。
せっかくなので、それを誕生日の1日でやりたい。そして、ちょうど自分が生まれた時刻に生まれた場所にいるようにする。
30年を1日に圧縮して逆回しする感じになるんじゃないか。
まずは生まれた日について調べる
東京駅前の八重洲ブックセンターに、生まれた日の新聞をコピーしてくれる、という自販機が置いてあるのを見かけた。
自分の生まれた1976年2月10日がどんな日だったのか、まずは調べて見ることにしよう。
生まれた日付を入力してしばらく待つと、取り出し口からコピーされた新聞の一面がでてきた(社会面を選ぶこともできる)。
日付は昭和51年2月10日とあり、たしかにぼくの生年月日になっている。そして大見出しは「PXL選定にも疑惑」。
調べてみたところ、その左下にもあるとおり、あのロッキード事件の関連記事だった。事件がはじめて報道されたのがその5日前。だからちょうど世の中が騒然とし始めた真っ最中だったんだろう。
生まれた日へさかのぼっていきます
これが30年前。
ここに向けて、時間を10年ごとにさかのぼりながら、かつていた場所をおとずれていくことにしたい。
というわけで、最初は現在から10年前の1996年。ぼくはどこにいたか。
10年前、ぼくはここにいた
10年前の1996年、ぼくは大学3年生だった。
専門はコンピュータで、朝まで端末室でプログラムを作ったりして遊び、眠くなるとそのまま椅子を並べて寝る、というようなことを繰り返していた。
端末室にはそういう連中ばかりが集まっていたので、しまいには、高さの違う椅子をどう並べるとより深い眠りが得られるか、といった知識が全員で共有されたりもした(注:端末室は泊まるための部屋ではありません。みなさんは泊まらないようにしましょう!)。
夏休みのある日、必死の形相で走ってきた大学の職員に、あなたが三土さんですね、といって腕をつかまれたことがあった。
一ヶ月ちかくも大学に泊り込んで下宿先に帰らなかったために、心配した両親が大学に捜索願いをだしたためらしい。
それ以来、ぼくが学校に泊まる頻度はあまり変わらなかったものの、両親にはちょくちょく電話をするようになった。
そしてそのころ住んでいた下宿先
その頃住んでいたのがここ。
六畳一間で家賃は四万円。駅からはすこし遠いけれど、なんといっても家賃が安いので、気に入って長いこと住んでいた。
ところが夏のなかごろに出入口のカギを2回つづけてなくしてしまったことがあって、さすがに大家さんにも言いづらくて、しばらくずっと大学に泊りこんでいた。
そのことを友人にいうと、「おれがカギを開けてやる」と言う。
それはもちろんなんの解決にもなっていないのだけど、そんなことができるものなら見てみたいという思いもあり、深夜、彼を含む友人5,6人をつれて自宅へもどった。あとで思い返すと全員が酔っ払っていたのがすでに悪い予兆だったんだと思う。
彼らの作業が終わるのを外で待っていると、とつぜん「パリン」という澄んだ音が深夜のまちに響き、つづいて彼らのにぎやかな声が聞こえてきた。
慌てて戻ってみると、扉は確かに開いていたものの、そこにはめられていたはずのすりガラスは見当たらず、そして床の上にはきらきらと粉のようなものが輝いていた。
ぼくは観念して大家さんにすべてを話し、半ば呆れられ半ば怒られて、なんとか許していただくことができたのだった(注:みなさんは扉はカギで開けましょう!)。
20年前、ぼくはここにいた
20年前の1986年、ぼくは茨城県内の小学校の4年生だった。
今回、当時通っていた小学校に事前にお願いをしたところ、幸いにもふつうの授業時間に敷地内で撮影をすることをお許しいただいた。
迎えてくださった教頭先生に挨拶をし、なつかしの小学校の中にお邪魔することにする。
4年生以上の生徒はぼくを見かけると必ず大きな声で「こんにちは」と言う。そしてすごい笑顔だ。カメラを向けるとかならず照れる。
ぼくは彼らの3倍の時間生きてきたことになるけど、とてもそういう気はしない。というよりぼくが成長していないというべきか。
掃除をさぼって女の子に怒られる男の子の気持ちはいたいほどよく分かるし、先生になつく気持ちもわかる。こういう部分はたぶん何才になってもあまりかわらないんだろう。
そして当時住んでいた家
そのとき住んでいたのは、小学校と目と鼻の先にある団地内の一棟だった。713棟の13階。いまでも数字を覚えている。
建物のかべに「うらめしや」に類する文字が浮き出る、という噂で、夏のあいだはカップルが見物にきたりして周辺がかなり賑わったこともある。
住んでいる当人にとっては、残念ながら単なるシミ以外にはどうしても見えなかった。
団地のさみしいところは、故郷のつもりでかつての家をたずねようとしても、いまではまったく違う人が住んでいることだ。
今回も郵便受けを眺めてみたけれど、ぼくの慣れ親しんだ番号にはとうぜんながらまったく知らない人の名前が書いてあった。
国立印刷局東京病院
そして30年前のこの日、ぼくは生まれた。
母親によると、生まれた場所は西ヶ原(にしがはら)にある国立印刷局東京病院というところらしい。
西ヶ原という地名は両親の会話でよくきいたけど、実際に行ってみるのははじめてだ。
母子健康手帳によると、ぼくが生まれた時刻は午前0時20分。その瞬間に病院の前にいるためには、電車で行くことはあきらめたほうがいい。
自転車で巣鴨から細い路地をいくつか入り、病院前についたころにはすでに0時近かった。
当然ながら、病院はしまっていた。
じつは事前に、病院内の撮影をさせていただけないかどうか連絡をとってみたのだけど、ふつうの昼間であっても撮影はだめです、と言われていた(それはそうですよね)。
しかたないので、近くに座れる場所を探して、0時20分の瞬間を待つことにした。
病院に面した道路(本郷通り)はこの時間でもかなり交通量が多い。
すぐ近くの歩行者信号が青にならないかぎり、絶え間なく車の行き過ぎる音が響く。
病院の近くには、本郷通りに一本の歩道橋がかかっている。
当時、道を挟んで歩道橋のすぐそばの団地に住んでいたぼくの家族は、ここを通って母のようすを見に行っていたらしい。
出産当日は、予定日を2週間ほどすでに過ぎていたとのことで、家族もずいぶん心配してくれていたか、と思いきやそうでもなく、4人目ということでずいぶんのんびり構えていたらしい。
じっさい、0時20分に生まれたという知らせを聞いても、家族はいそいで病院へやってきたりはせず、次の日のんびり母とぼくの顔をみにきた、と母が笑って言っていた。
0時20分になった
ぼくが生まれた時刻がやってきた。
今からちょうど30年前、この場所でぼくは生まれ、そしてどういうわけか30年後の今日、ぼくはここにいる。
だいぶ酔狂な育ち方をしてきたものだ、と思う。
この日はちょっとだけ暖かかったとはいえ、自転車で走るにはまだまだ寒い。
むかいのコンビニで熱いお茶を買い、顔をあたためながらゆっくり江古田へ帰りました。