「どうする家康」が始まったが、画面は汚く安っぽいし、家康はあたりまえすぎるし、瀬名姫を妾にしたい今川氏真と嫁にしたい家康が今川義元の命令で剣術で勝負して賞品がわりに家康がもらうというフェミがCOLABO問題でお忙しくなければ怒りそうな訳の分からんストーリーで、おおこけの予感だ。
個性的な星付きレストランのあとファミレスに入った感じである。それは、ともかく、基礎知識が欲しい人もおられるだろうから、松平家のルーツと瀬名姫(築山殿)についての史実を少し説明しておきたい。
まず今回は、「令和太閤記 寧々の戦国日記」(ワニブックス)から寧々の回想の形で紹介。
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於義丸(秀康)が人質になったことや義妹の旭姫の輿入れのことなどを話したついでに、德川家康さまのご家庭のことなどについて、私が聞いていた話をお聞かせいたしましょう。
家康さまが、清和源氏の新田一族だというのは、家康さまが将軍になりたいための作り話だという方もおりますが、さすがにそこまでいい加減ではありません。
松平家の先祖である親氏さまは時宗の僧侶で、応永年間に三河国に流れてきて、はじめ酒井氏の、ついで加茂郡の山間(豊田市)の松平氏の入り婿となり土着されたそうです。その頃から、「自分は上野国新田郡の新田一族で、世良田あるいは徳川と名乗っていたが戦乱で国を離れた」と言っていたようで、家康さまが言い出した話ではありません。もちろん、この親氏さまの身の上話が本当かどうかはわかりません。
家康さまも、のちに関東に移られたときに、美智子上皇后さまの先祖である生田氏という土地の有力者を呼んで、詳しい情報はないかお尋ねになったそうですが、よくわからずじまいだったようです。それでも群馬県太田市の世良田には東照宮が建てられました。
そののち、親氏さまの孫の信光さまが勢力を拡大され、幕府奉公衆で三河に領地を持っていた伊勢氏に仕え、そのつながりで全国あちこちで傭兵稼業をされていたのです。たとえば、近江伊香郡の菅浦という美しい漁村にも、松平家のご先祖の記録が残っております。
この信光さまをはじめ、松平家の方々は子だくさんで、結婚を通じて西三河全域に勢力を伸ばしました。ただし、どこが本家かもはっきりしませんでしたし、守護代というきちんとした地位にあったのではありません。
ただ、家康さまの祖父である清康さまは早熟で、西三河の実質支配者になり、尾張にまで進出しようとして名古屋市北部の守山へ出陣されたのですが、家来に裏切られ殺されました。そのあと、家中でも織田家と連合しようとする勢力と、駿河の今川家に後押しされた清康さまの嫡男・広忠さまが対立したのですが、その広忠さまも家来に叛かれて殺され、まだ子どもだった家康さまは駿府で保護され、岡崎城は今川氏の代官が治めたのです。
桶狭間の戦いで、家康さまは先鋒隊として活躍されたのですが、今川義元さまが桶狭間で討たれたのちは、駿府に帰らず岡崎城に留まられました。そして、最初は織田方と小競り合いもされましたが、母親(於大さま)の兄である水野信元さまの仲介で、信長さまとの同盟に踏み切られました。ただし、今川といきなり手切れだったのではありません。
このとき、家康さまの奥方の築山殿は、長男の信康さまと長女の亀姫さまと一緒に、駿府で実家の関口親永さまのもとにおられました。家康さまは妻子を岡崎に呼ぶため、今川と硬軟織り交ぜて交渉され、なんとか成功されました。
それでも、家康の母である於大さまが築山殿たちを岡崎城に入れさせなかったとか、関口夫妻は今川氏真さまの不興をかって殺されてしまう、二人のかわりに人質に出された異母弟(久松康俊)は逃げる途中に両足の指を凍傷で失うなどいろいろありました。
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瀬名姫については、次回、もう少し詳しく紹介します。
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