月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也……江戸時代の俳人、松尾芭蕉が東北地方へ旅立ったのが、元禄二年(1689)年の旧暦3月27日。新暦でいうと、5月16日、ちょうど今頃(5月)だ。
よい機会なので『おくのほそ道』の深川と千住、つまり現在の東京都の範囲だけを、辿って散歩してみた。
田舎の小学生『おくのほそ道』に出会う
芭蕉がおくのほそ道の旅に出立してちょうど300年の節目の年だった1989年。記念切手で、おくのほそ道シリーズというものが発行されたことがあった。
当時、切手を集めていたぼくは、おくのほそ道に興味をもち、文庫本を買った。
難しそうな内容ではあったけれど、俳句だけだったらすぐ読めるし意味もわかるのではという魂胆だった。で、軽い気持ちで、俳句の部分だけを読んだ。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
夏草や兵どもが夢の跡
蚤虱馬の尿する枕もと
荒海や佐渡によこたふ天河
このあたりの俳句は、小学生が解説なしで読んでもなんとなく意味がわかり、なにがしかの印象を与えるには十分だった。
当時、ぼくは鳥取の片田舎に住んでいたが、いまだ見たこともない東北の山河に思いを馳せることになった。
「おくのほそ道で芭蕉が訪れた場所を、いつかは訪れたい」そう思いつつ、果たせないまま40年の月日が流れた。
なんとなく後回しになっていた『おくのほそ道』をたどること。まずは、深川と千住だけでも行っておくかと、重い腰をあげた。
芭蕉庵はどこにあったのか
おくのほそ道のいちばん最初の句はなにかご存知だろうか。
草の戸も住替る代ぞひなの家
だ。先に挙げた、わかりやすい俳句に比べたら、ちょっと意味が分かりづらい。
「代(よ)ぞ」などと大げさな言い方をしているけれど、これは家(草の戸、つまり芭蕉が住んでいた草庵)の住民が代替わりしたよ〜ぐらいの意味だ。
東北に旅立つにあたり、当時住んでいた草庵を引き払った後、新しく入居してくる家族に小さな女の子が居ることを知った芭蕉が、「おじさんひとりずまいのわびしいこの部屋の住民が代替わりして、小さい女の子も住み始めるらしい。そうすると、おそらく雛人形なんかも飾っちゃったりなんかしちゃって、華やぐな〜」という、気持ちをよんだ句だ。
よく、引っ越しする時に、家財道具を運び出してガランとなった部屋の写真に「#引っ越し #◯年間 #お世話になりました #おっさん一人暮らし #次は家族連れが住んだりして」などと、ポエムみたいなハッシュタグを付けてインスタグラムにアップする感覚に近い。
さて、その芭蕉が住んでいたという草庵だが、どこにあったのか。現在の住所でいうと東京都江東区常盤1丁目1−3。
隅田川のすぐ横だ。
なぜ「ここにあった」ということがわかるのか。それは、江戸時代の地図に書いてあるからだ。
幕末の江戸切絵図、本所深川絵図に「芭蕉庵ノ古跡 庭中ニ有」とある。
芭蕉は37歳の時、弟子の杉山杉風(すぎやまさんぷう)の計らいで新大橋近くの草庵に住み始めた。
実は、この草庵に住むまで、芭蕉は桃青(とうせい)と名乗っていた。
芭蕉という俳号は、弟子から送られた芭蕉の株を、住んでいた草庵に植えたところ、よく生い茂り、芭蕉庵と呼ばれるようになったころから、俳号も芭蕉を名乗るようになった。
直訳するとパインテール・ピーチブルーが、パインテール・バナナに改名したことになる。
土砂降りのなか、芭蕉庵あとに向かう。
芭蕉庵跡は、小名木川と隅田川の合流地点にあった。今以上に物資や人の移動に水運が大きな役割を担っていた江戸時代では、高速道路のジャンクションのような場所だっただろう。
当時、芭蕉はここの草庵から川を行き交う船を眺めていたのかも知れない。ちなみにこの芭蕉像、動くことで有名だ。
芭蕉はここにあった草庵で、あの「古池や蛙飛びこむ水の音」の句を詠んだといわれている。
そのため、芭蕉像の後ろには、おたまじゃくしの泳ぐ小さい池がこしらえてあった。
芭蕉庵に芭蕉が住んでいる間、庵はいちど(1682年)火事で燃えている。五弁庵蝶夢の『芭蕉翁絵詞伝』によると。
ある年、庵の辺り近く火起こりて前後ろの家共めらめらと焼くるに、炎熾(さか)んに、遁るる方あらねば、前なる渚の潮の中にひたり、藻をかつぎ、煙を凌ぎ、辛うじて免れ給いて、いよいよ猶如火宅の理を悟り、只管(ひたすら)無所住の思を定め給いけるとや。
とある。ざっくり意訳すると……。
庵の近くで火事が起こり、近くの家がメラメラ焼けて火が迫ってきた。逃げる場所がないので、庵の前の川(?)に浸かって藻を被り、煙を防いで辛うじて助かった。法華経でいうところの「猶如火宅(ゆうにょかたく…火事の家、心が休まるところがないことのたとえ)」とはこのことで、無所住の気持ちがめちゃくちゃ強まった……。
「無所住」というのは、かなーり大雑把に説明すると、物に執着したりする心(所住)が無い。というところだろうか。
この無所住の心境は、おくのほそ道の序文にある「予もいずれの年よりか、片雲の風に誘われて漂白の思いやまず」という部分にもよく現れている、住む場所に執着しない、すなわちあてもなく旅すること、そういった芭蕉の境地は、この芭蕉庵丸焼け事件でその思いが強くなった。といわれている。
ちなみに、消失した芭蕉庵は、その後、知人や弟子らの援助によって再建され、先述の通り東北に旅立つ1689年まで住んでいる。
芭蕉庵跡の近くには江東区芭蕉記念館がある。
江東区が「芭蕉庵があった」というアドバンテージをフルに発揮し、松尾芭蕉マニアで研究家だった国会議員の真鍋儀十の松尾芭蕉コレクションを引き継いで作ったありがたき施設だ。
館内に入ると、真っ黒な石の塊が置いてある。
この石の蛙は、1917年の台風による高潮で出土したものだ。
これが、芭蕉庵があったと言われていた武家屋敷の跡地から出土したことで、カエル型の石=古池や蛙飛びこむ水の音=芭蕉庵という連想から「芭蕉遺愛の石の蛙」とされたものだ。ただし、学術的な根拠はあまりないので(伝)となっている。
本当に「芭蕉遺愛」だったかどうかはわからないものの、松平遠江守の武家屋敷に芭蕉庵の古跡があり、そのことは切絵図にも記されるほど有名だったのは確実だ。
芭蕉庵の古跡に、古池の句がそこで詠まれたことを示すための、カエル型の石なんかを置いていたとしても不思議じゃない。
現在このカエルが出てきた場所は、芭蕉稲荷神社という小さな稲荷神社となっている。