「ここまで来られたのは自分1人の力ではない」 41歳でサラリーマンになった元大相撲力士の恩返し

J-CASTニュース

   「着物での生活が長かったのでスーツはまだ慣れなくて」。甘利聡司氏(42)は大きな背中を少し丸めて照れくさそうに何度も額の汗を拭った。差し出された名刺には「アスリート・マーケティング株式会社」と記されている。所属はマネジメント事業部。主に現役アスリートや一線を退いた元アスリートのマネジメントを担当している。

  • 第2の人生をスタートした甘利氏

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  • 力士時代の甘利氏

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「強くなって父親に楽をさせたい」

   現役時のしこ名は闘鵬。中学卒業後からの26年間はまさに相撲一色の生活だった。相撲好きの父親の影響で小学生の時から道場に通い、全国大会に出場した経験を持つ。道場の関係者からの紹介もあり中学卒業後は大鵬部屋に入門すると決めていた。「強くなって父親に楽をさせたい」。15歳の甘利少年は希望を胸に上京した。

   入門してから1、2年は体重がなかなか増えず苦労したという。稽古の厳しさもあり入門当時89キロだった体重が一時的に落ちたこともあった。相撲部屋での食事は稽古後と夕飯の1日2食で、1度の食事でどんぶり5杯が課された。角界の水に慣れたころにようやく115キロまで増えたが、それでもまだ細身の部類だった。

   2003年1月場所に序二段で優勝したものの三段目の生活が長く、上昇のきっかけがつかめずにいた。幕下に上がったのは31歳の時。おぼろげながらもようやく関取の座が見え始めた矢先、本場所中に右ひざを負傷して途中休場を余儀なくされた。次の場所で三段目に落ち、再び幕下で相撲を取ることはなかった。幕下60枚目が最高位だった。

   引退の2文字がうっすらと頭をよぎったのは18年11月場所だった。本場所中に肩甲骨を骨折し「自分の体は大丈夫なのか」と不安が込み上げた。「やれるところまで相撲を取り切ろう」。38歳は自身に言い聞かせ、残り少ない相撲人生に向き合った。そして21年の11月場所(九州)を最後に土俵に別れを告げた。

   41歳まで土俵に上がり続け、相撲にこだわった理由は何だったのか。甘利氏は「もちろん自分のためというのもありますが、応援してくれた人たちに頑張っている姿を見せたかったというのがあります」と語り、こう続けた。

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