京都の湯豆腐はかんたんなコースとはいえ4400円
「京都の高い湯豆腐」という一つの定型句のようなものが存在する。「大豆をすりつぶして固めたものが4400円だって」とそこにはお高くとまった伝統文化に対するやゆが混じっている。
ところで40代に入り、なぜか肉を食わない食生活に入った筆者なのだが、今ならあのよさが普通に分かってしまうかもしれない。そう。今、私がはんなりするときがやってきた。(はんなりの意味はよく分かっておりませんが)
そういうわけで帰省ついでに京都に寄って高い湯豆腐を食べることにした。
湯豆腐はもともと大好きな食べ物ではある。一人暮らしを始めた頃は湯豆腐ばかり食べてた時期があるくらい。
でもそれは3パック100円というお値打ちさも大きな理由の一つだった。そう考えると今日は132倍くらいの体験をしないといけない。
先に言っておくと京都の湯豆腐はただの美味しい湯豆腐だった。結果だけお伝えすれば一行で終わるのだが、今日お伝えするのはその体験である。
京阪祇園四条駅から清水寺の方までバスに乗る。
湯豆腐に4400円は高いが逆にどういう湯豆腐であれば納得するのだろうかと想像をしてみる。たとえば豆腐をくずすと中にイクラが入っているとか。
「ほう、イクラか」
と羽織姿のグルメ漫画の人みたいな気分で納得するかもしれない。人はイクラを見ると高くても何か納得してしまうものだから。だけどどうなんだろうそれは。
「はっはっは、こんなものが湯豆腐と呼べるのか」
「なにっ!」
私の中の羽織姿の人が怒り出してしまうことだって想像にたやすい。
「見ろ、イクラみたいなものをグラグラ煮立てた湯豆腐に使うものだからタンパク質がガチガチに凝固している。こんなアクアビーズみたいなものはイクラではない!」
バスに揺られながら想像の湯豆腐は失敗を重ねる。
でもそういうことじゃないんですよ、と私は想像の羽織姿の怒ってる人をたしなめる。湯豆腐に豆腐以外のものを入れたらだめなんですよと。
バスを降りて歩く。平日ということもあって人も少なく、今は外国からの観光客もほぼいない。
清水寺の近くは観光の道になっている。来たことがないのになじみのある風情がある。ここは各地の小京都の総本山とも言える大京都なのだ(検索すると全国の小京都を称する自治体による全国京都会議なるものがあるらしい)。
浴衣姿でデートをする男女二人組がいた。花火大会かと思うと着物姿の人もいる。京都らしさを楽しんでいるのだ。
京都には京都らしさがあり、みんなそんな京都らしさを洗車機に入る車のように浴びるほど味わいたいと思っている。
京都らしさといってもお座敷遊びをするのは金銭面でも心理的にもハードルが高いだろう。「ええ時計したはりまんなあ」と嫌味を言われるほど京都の人と喋る機会もない。
そう考えると京都らしさを満喫するにはこの観光の地で着物を着て高い湯豆腐を食べるのはかなりの最適解ではないか。
豆腐にしては高いが京都らしさにしては安い。店にたどり着く前に看破してしまったが本当にそうなんだろうか。
でもその理屈なら湯豆腐食べなくても「京都鞭打ち4,400円」でもよいわけで、そこには大豆タンパクによるワンダーがなにかあるはずである。
11時開店の前に着いたので店の前で並ぶ。並ぶほどのお店とはなんだろうか、と通り行く人が気にし始めた。他のお店は観光向けらしく伝統というより軽く楽しい感じのお店が多い。
開店まで30分ほど待つ。年配のご夫婦が興味深そうに写真を見ている。気が大きくなっている私は人に話しかける心の余裕があり「湯豆腐なのに4400円ですよ」と教えてあげた。
「ええ~高あ」「そら奥丹で食べよう思うたらそれくらいするわなあ(笑)」と言ってたので店の存在は知ってるのだろう。
実は高い湯豆腐を食べてみたいと思って検索したときには5000円以上するところも目についた。今回は最初なので一番有名そうなこのお店を選んだのだ。
この奥丹というお店は375年前にできて、今でも同じ作り方で「昔どうふ」という木綿の豆腐を作っている。豆腐の工房が店内に併設され、琵琶湖の奥の方の井戸水を使って豆腐を仕込んでいるそうだ。
力いっぱい豆腐を作る写真が飾ってあった。こんなに力をこめたらどんどん豆腐は高くなってしまうだろう。
「そんなことをするから高くなるんだ」と心の中に羽織姿の食通が再び顔を出してしまう。「もっとへっぴり腰でやれ、へっぴり腰で!」開店まではそろそろである。
開店時間が来て奥に通される。こうした「奥に」感覚は一般のお店にはない(いや、銭湯の靴箱が併設されてる座敷系居酒屋にはある)。この先に何があるのだろう?という「奥通され代」が積もっていって高い湯豆腐が出来上がるのだろう。
この先がどんなものであろうと、例えばそれがエアコンがガンガン効いた部屋で鉢巻きしめた受験生たちがカリカリ一心不乱に試験問題解いてる部屋であったとしても、私は「そうなんですね」としか言えない。
それほどまでに高い湯豆腐をわかりたい一心で今日は来ている。
メニューを渡されてかんたんな説明があるも、基本的にはコース料理で木綿豆腐の「昔どうふ」か現代的な絹豆腐の「おきまり」他には島豆腐や冷奴のコースくらいしかない。ドリンクをのぞけばこれは豆腐の食感違い表でしかないのである。
昔どうふを頼み、少しすると料理がやってきた。
ごま豆腐を食べる。口に入れてすぐ香りがする。ごま油の香りに似ているのでこれがごまの香りということなんだろう。醤油の酸味だろうか。ポン酢で食べてるのに近いくらいに酸味を感じる。味は早めに引いていくのでダシを使ってるわけではないのだろう。
ああこれは美味しい。パッとごまの花が開いて、さっと散るような。
……しれっと書いているがどうしてこれが「花」である必要があるのだろうか。「ごまを模したレゴブロックがモロっと折れるような」と書いてもいいのに「花」を持ち出してきているのである。私は知らないうちに京都に引っ張られているのかもしれない。
味を感じてモロっとレゴブロックが折れてまた次の一口へと。わさびを足してみると、わさびのレゴ、いやなんでレゴの話をしてるのかわからなくなってきた、わさびの香りがして全体の色が変わる。黙々と食べているとやがてなくなる。
ああ、美味しかった。でもこれだけ注意深く食べていればなんだって美味しいのかもしれない…。
山椒と白味噌の田楽が出てきた。早くも豆腐である。先程と同様にごまに代わって山椒が香りを演出し、醤油に代わって味噌と甘みの調味料で豆腐を食べさせる。こちらは豆腐なのでごま豆腐にはないクリーミーさがある。
今回も味がすぐ終わるな、とぼんやり考えていたのだが、そうか、これが精進料理というやつか、と気づいた。動物性のダシを使わないとこんな感じになるのか。
そっか、精進料理体験でもあったのか今日は。一回立ち上がりたいくらいの驚きであるが正座から立ち上がるのはどうしも一回「よっこらしょ」を挟むのでできず。
田楽豆腐を食べていると湯豆腐がやってくる。でもあの豆腐は今口に入れている豆腐と同じものだとは思う。
「まあ豆腐はうまいよな」程度に淡々と食べているこの豆腐をさらにあれだけ食べるのか。京都の高い湯豆腐、コースといってもおもったよりも豆腐を食うことになるぞ。
湯豆腐を食べる。一体昔豆腐とはどういうものなんだろうかと味を探る。うん、おいしい。そもそも湯豆腐はおいしい。木綿豆腐でそこそこの噛みごたえがあって一口一口に満足感がある。
やさしいとか上品であるとかいくらでも言えるが、ふだん使っていたミツカンの味ポンよりも味が弱い。このおだしも精進料理の作り方なのだろう。
もう一つ食べる。パクパクパク。先程と何も変らないものがやってくる。これがあと5つある。まあ湯豆腐だよなという湯豆腐がずっと続く。
これが伝統というものなのかもしれないなと思う。例えば日本の伝統音楽にしてもエレキギターを入れていいのは河内音頭くらいなもので、他は和楽器でプァープァー、イヨーポンポン、とやるしかない。よかれと思って変えてしまうと伝統が失われてしまう。
この豆腐自体、昔からの製法を守っているわけで急においしい製法を足すことはもうできないのだ。
それはイクラを入れてはいけない湯豆腐そのものの存在とも似ている。だから高いのは湯豆腐なのかもしれない。
もう一つ食べる。湯豆腐は熱々でうまい。
ごま豆腐では香り、田楽では豆腐の食感、と来たわけだがここでは温度が与えられているのかもしれない。熱々であることがおいしい。
また一つ食べる。変わらずうまい。パクパクパクとリズミカルに口を動かしてはそのたびに味の報酬がそこそこ与えられる。これはそういうアルバイトなのかもしれない。
噛むという労働で味の報酬が与えられる。人間はみな生まれながらにそういうフリーター性みたいなものを宿しているのではないか。
豆腐がまた一つ減る。熱々で食べるうちに落ち着いていく。何も変らない。ずっと変わらずそこそこ「やっぱり湯豆腐はおいしいな」が続く。
噛む、味が出る。噛む、味が出る。先程はバイトと思ったが、もしかしたらこれはドラムに近いのではないか。ドラムがエイトビートを淡々と叩いている状態に近い。
ドンタン、ドンタン、とドラムはこういうよさがあるよなというものをずっと聴いているような。たとえば次に歌のサビが来てしまうと、サビで盛り上がるもその後、よくない時間が生まれてしまう。ただ起伏なく淡々とよい状態がつづく。
豆腐ってこういうよさがあるよなというそこそこの歯ごたえや旨味、甘みというものをずっと味わっている。
特に飽きたりもしない。とびきり美味しいとも思わない。こういうものなのだから。湯豆腐おいしいよながずっと続く。京都の高い湯豆腐どうでしたか? 今度編集部の安藤さんに会ったら聞かれるだろう。「ドラム入門のYouTube動画とかでドラムパターンを延々聴いてるような状態です」とだけ答えておこう。
天ぷらがやってくる。大葉やかぼちゃ、ししとうと海苔とあとは麩だろうか。大葉にいたってはスナック菓子かというほどに揚げられたものは食感が楽しい。油の喜びもある。
これも普段の生活からすれば「じゃあポテトチップス食べればいいじゃん」とも言えるが、一回精進料理の枠内に自分を収めることができると大スター登場のようなことなのだろう。切り替える必要がある。
結局こういうものを楽しめるかどうかはドラえもんのひみつ道具だったりスプーンおばさんみたいに自分を大小させていけるかどうかなのでは。
とろろも普段ならめんつゆでみたいな作り方をするがこれはダシがないので味がすぐ引く。味の持続時間が短いという意味でもすごくさっぱりしたものだった。
コースが終わってしまう。こういうものか。いろいろなことがわかったし、何より考えを巡らせた。豆腐はそもそも美味しいものでそのままであることがよいのだ。
変らないことはよい。起伏がないことが心地よい。そう言いつつも、伝統芸能の家系に生まれた10代の怒りのような反逆心が生まれる。梶井基次郎がレモンを爆弾に見立ててそっと丸善に置いてくる感じで、私は京都の湯豆腐にそっと味の素をふりかける。
味の素をそっとふりかけて湯豆腐を食べてみる。多少ピリピリとした独特の感覚とうまみもうまれたような気がするが、そこまで大きくは変らない。変わらず「湯豆腐っておいしいよな」が続くのである。
湯豆腐の良さとはそんなに味に根ざしたものではないのかもしれない。雅楽の家系に生まれた10代がパンクバンドを経てまた笙を持つ日がやってきた。
湯豆腐という熱いものをワシワシと噛んでそのたびにほどほどの甘みや旨味が染み出してくる。その一連の運動が心地よいのであって、たとえばこの中にイクラが入っていてうまみが口一杯に広がったところで、それはそういうことじゃないんだよな、である。
湯豆腐には豆腐以外のものは必要がない。湯豆腐は運動が心地よいのだ。最後におだしを少し飲んでみる。うまみが広がる。これはバンドの「ジャーン」部分であるなと思った。
こんなにも湯豆腐のことを考えたことはない
湯豆腐とは一つの運動である。ただ熱々の豆腐を噛んで、ふむふむと豆腐のうまさを噛みしめるものである。
運動を前にしたら旨味やダシという考え自体がすでにちょっとダサいものなのかもしれない。「えらいもんどすなあ、こんなにえらい旨味が続いて、まだ続いてはるわ……あらええ時計したはりまんなあ」と嫌味の一つでも言われてしまうのかもしれない。
湯豆腐はそもそも美味しいもの。ただそれだけの結果であったが様々な体験と知見がそこにはあった。たくさんありすぎたので箇条書きでまとめておこう。ここはニュー・シネマ・パラダイスのBGMを流して振り返ってほしい。
・湯豆腐にいくらを入れるとアクアビーズになる
・京都観光は京都らしさの洗車機に行きたいと思っている
・京都鞭打ち4400円でも出す
・「おいやみ2000円」と書かれてても出す
・奥に通されると屏風に書かれた虎を出す一休さんが
・かと思ったらエアコンの効いた部屋で受験生が試験問題を解いていた
・ごまのレゴブロック
・梶井基次郎がやったことは湯豆腐に味の素をかけたこと
伝統はたくさんの情報を含んでいるがそこから何をくみとるかは自分次第である。
ライターからのお知らせ
くだらなさのお芝居明日のアーをやってたために全く記事書いてなかったんですが、映像配信開始しました。会場が大きく経費がかかりすぎてて、応援のつもりで買ってくだされ。これどす。
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