愛知県名古屋市の南区にある道徳公園にはクジラ型の噴水が存在する。昭和2年(1927年)に造られた、あと数年で築100年となるコンクリート像であり、最近になって国の有形文化財に登録された。
どのようなものかと見に行ってみたのだが、これがなんとも味わい深く、いとおしさすら感じられるほどの作品であった。
1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー)
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昭和初期の宅地開発で整備された「道徳公園クジラ池噴水」
クジラ噴水がある道徳公園は、名古屋駅から名鉄で10分ちょっとの道徳地区に位置している。名古屋市の中心部に近いながらも、閑静な住宅街が広がるエリアである。
かつて道徳地区の一帯は「あゆち潟」と呼ばれる海であった。江戸時代の後期に干拓が行われ、その後に尾張徳川家の所有地となった。道徳というちょっと固い地名も、尾張徳川家の政策方針であった「道義を以て徳を施す」に由来するという。
道徳地区の土地は大正14年(1925年)に尾張徳川家から名古屋桟橋倉庫株式会社へと売却され、昭和初期にかけて区画整理や宅地造成が行われた。道徳公園はその際に整備されたものだ。
この大きな池以外にも、子供向けの遊具や、野球場、テニスコート、バスケットボールコートなどがあり、ボールが弾む軽快な音を響かせていた。
年齢を問わない憩いの場という感じで、こんなところが近所にあったら良いだろうな、と思わせてくれる公園である。
こうしてイラストになっているあたり、クジラ噴水が道徳公園のシンボルとして人々に親しまれていることが良く分かる。さてはて、肝心のクジラ君はどのあたりにいるのか、探してみよう。
このクジラ噴水を間近に見た時の第一印象は、「日光東照宮にある象の彫刻に似ているな」というものであった。
どうだろう、たれた目や口元の感じに共通した雰囲気が……あるような、ないような。まぁ、いずれにせよ現代の子供向け遊具にはない方向性の意匠であろう。このセンスが気に入った。
クジラ本体はどっしり構えられた静的な印象なのに対し、この立体的にくねる尾びれには躍動感がある。ただの子供向け遊具にとどまらない、造形へのこだわりがうかがえるというものだ。
さすがに100年近い年月を重ねてきただけあって、コンクリートの躯体には痛みもあるようだ。だが、ひび割れの上に丁寧な補修が見られ、度々修理が施されてきたことがうかがえる。国登録有形文化財になったこともあり、これからもクジラ噴水は地域の方々によって大事にされていくことだろう。
……と、これまで繰り返し「クジラ噴水」と書いてきたが、噴水なのに水が噴き出ていないじゃぁないか、と思われた方がいるかもしれない。安心して頂きたい、このクジラ像にはちゃんと水を噴き出すギミックも搭載されているのである。
現代の電動ポンプを使った派手な噴水も良いものだが、このような水道管の水圧を利用しただけのシンプルな噴水もまた、ささやかで味があるというものである。
いい、実にいい。クジラの造形といい、この手動噴水のギミックといい、随所に遊び心が感じられて、まさに市民公園のシンボルにふさわしい存在である。私、物凄く気に入りました。
なお、この「道徳公園クジラ池噴水」を制作したのは、「後藤鍬五郎(ごとうくわごろう)」という昭和初期に活躍したコンクリート造形職人である。調べてみると、愛知県内には他にも鍬五郎が手掛けた作品が現存するようだ。見に行ってみようではないか。
一大レジャー施設の忘れ形見「道徳観音」
クジラ噴水がある道徳公園の南側には、かつて名古屋桟橋倉庫株式会社が昭和3年(1928年)に造成した「観音山」がそびえており、その山頂には鍬五郎が制作した観音像が祀られていたという。
観音山の高さは約18m、観音像は約6mであり、道徳地区の象徴的な存在だったようだ。しかしながら、昭和39年(1964年)に名古屋桟橋倉庫株式会社が解散したことにより取り壊され、現在は住宅地になっている。
この説明によると、なんと観音山の内部は屋内型のスケートリンクになっており(名古屋初のスケート場だそうだ)、また山の上から流れ落ちる高さ12mの滝の下にはプールが広がっていたという。
観音山の周囲には「泉楽園」という温泉施設や、他にも様々な娯楽施設が集まっており、一大レジャー施設の繁華街として名古屋でも有数の賑わいを見せていたそうだ。
山頂に立っていた観音像は観音山と共に取り壊されたものの、山腹に祀られていた小型の観音像は残っており、現在は観音公園の南側に境内を構える東昌寺に祀られている。
ちなみに彩色は当初からのものではなく、平成9年(1997年)に観音堂を修理した際に塗り直したそうだ。
この裾の表現といい、表面に見えるコンクリートのざらっとした質感といい、まさしくクジラ噴水と同じであり、鍬五郎の手によるものだと分かる。
かつてこの地に存在した一大レジャー施設に思いを馳せつつ、丁重にお参りをさせていただいた。
師匠と共に築いた先駆作「聚楽園大仏」
続いては、名古屋市の南に隣接する東海市だ。聚楽園(しゅうらくえん)という公園にある鉄筋コンクリート造の「集落園大仏」もまた、鍬五郎が建立に携わった作品である。
この大仏を発願したのは実業家の山田才吉(やまださいきち)という人物で、自らが経営する聚楽園旅館の敷地内に私財を投じて建立したという。大正13年(1924年)に着工し、3年後の昭和2年(1927年)に完成した。
工事の責任者は名古屋のペンキ職人である山田光吉(やまだみつきち)で、鍬五郎はその弟子として工事に参加した。ペンキ職人がコンクリート大仏を手掛けるというのは不思議に思うかもしれないが、おそらくは土壁を塗る左官の職人が、時代と共にペンキ塗装、そしてコンクリート造形を扱うようになったのでしょうな。
聚楽園大仏の高さは18.79mであり、モデルにした鎌倉の大仏(11.31m)や奈良の大仏(14.98m)よりも大きく、完成当初は日本最大の大仏であった。
また鉄筋コンクリート造の大仏として日本最初のものであり(鉄筋ではないコンクリート造の大仏としては、佐賀県唐津市の呼子大仏が現存最古のようだ)、複雑な形状の巨大建造物を築くことが可能になった、新たな技術を示す先駆的な作品として評価されている。
なお、大仏の一段下には鉄筋モルタル造の「仁王像」が構えられている。……が、老朽化による劣化が進んでいるのか、残念ながらネットで覆われており見ることはできなかった。
この仁王像もまた大仏と一連で築かれたものなので、できるだけ早い修復が望まれるというものだ(単に私がその全身を拝みたいだけということでもある)。
静かな集落にたたずむ「刈宿の大仏」と「閻魔像」
最後は名古屋から少し離れて西三河、西尾市の刈宿(かりやど)である。この昔ながらの集落には、鍬五郎の作品がふたつ存在する。
その高さは約14m、地元では「刈宿の大仏(おおぼとけ)さん」と呼ばれ、親しまれているという。以前は赤銅色だったようだが、最近の修理によって金銅色に塗り替えられたようだ。
聚楽園大仏は鎌倉の大仏をモデルにしたこともあって、全体的にどっしりとした塊のような躯体であるのに対し、刈宿の大仏は両手を上げて細やかな印相(指の形)を表現したり、透かし彫りのような光背を付けたりと、明らかに制作の難易度が上がっている。
前回は師匠と共に、発注者の意向に従って鎌倉大仏に似たものを作ったが、今回はより工夫してみようという、鍬五郎のチャレンジ精神と美的センスがうかがえる作品といえるのではないだろうか。
なお、この大仏は常福寺の本堂を背にして立っている。なんでそっぽ向いているのかと思ったが、傍らの説明板によると漁師の安全祈願のため海の方を向いて建てられたとのことだ。なるほどなぁ。
刈宿にあるもうひとつの鍬五郎作品は、常福寺から少し北へ行ったところにある、国道274号線沿いの閻魔堂に安置されている。
堂内には閻魔像の他にも、妙にリアルで怖い犬の像や般若の面が置いてあったり、 トイレットペーパーが転がっていたり、まるで私の部屋のような雑多さである。
どうにもシュールな光景であるが、そのような中においても閻魔堂の主である閻魔像は泰然と威厳を放っている。
盛り上がる頬肉に大きな鼻、ヘの字に結んだ口元に険しい目付きと、鬼気迫る表情である。正直、薄暗い堂内をのぞいて目が合った時には「ヒェッ!」っと息を飲んだ。それほどの迫力である。
地元で親しまれてきた鍬五郎作品
今回はクジラ噴水をきっかけに、後藤鍬五郎が手掛けた作品群を巡ってみた。鍬五郎氏は昭和初期という限られた時期だけ、愛知県という限られた地域だけで活動していた人物なだけに、全国的な知名度は低いと思う。
しかしながら、その作品は現在まで地域の方々に親しまれており、「道徳公園クジラ池噴水」のように国の文化財になるものも出てきた。鍬五郎氏の作品はより広く知られてほしいと思うし、末永く大事にされて頂きたいものである。