垂直の空堀が迷路のように巡る「南九州型城郭」が恐ろしい!

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日本全国に三万以上もあるといわれる城。その大部分は中世に築かれた山城であり、険しい地形を利用して土を掘ったり盛ったりして造成されている。

それらの中でもシラス台地が広がる九州南部の中世城郭は一味違う。垂直に切られた空堀がまるで迷路のように入り組んでおり、他地域の城には見られない独特の迫力を醸しているのだ。

1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー)

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空掘を巡らせて敵を阻む土の城

一般的に城というと堅牢な石垣や荘厳な天守がそびえる姿を思い浮かべるかもしれない。だがそのような石の城は近世のものであり、中世の頃は石垣を用いない土の城が基本であった。

城の全体に石垣を用い、天守(天主)を構えたのは織田信長の安土城が最初である

中世の城は山の上や台地の縁など攻め込まれにくい地形を利用して築かれており、曲輪(くるわ、城の各区画)を堀で囲んだり、山の尾根を分断するなどして敵の侵入を阻んでいた。

東京都の八王子市にある滝山城の本丸と中の丸を隔てる空堀
こちらは神奈川県横浜市の小机城、いずれも堀の断面はV字だ

このような空堀を城内に巡らすことで敵を足止めし、また侵入経路を限定することで堀の内部に入ってきた敵を上部の曲輪から弓矢で一網打尽にできるというワケである。

南九州においてもそのような基本理念は同じなのだが、シラス台地に築かれた中世城郭は他地域のそれとは様相が大きく異なる。まぁ、見て頂くのが早いだろう。

侵入すること自体が恐ろしい「清色城」

最初に紹介するのは鹿児島県の北西部、薩摩川内市の入来(いりき)にある「清色(きよしき)城」である。ここはホント、城内に入ること自体が恐ろしい城である。

この断崖の裂け目のようなものが清色城の入口なのだ
シラス台地を掘り切った、深く狭い通路を進まなければならない

火山灰が堆積してできたシラス台地は、もろくて風化しやすいという特徴がある。逆に言えば人の手でも比較的簡単に掘ることができ、このような大規模な堀切を作りやすいということでもある。

またシラス台地は水に侵食されやすく、他地域の城のようなV字型の堀だと雨で土砂が流れてしまう。垂直に近い方が水に対して安定するので、必然的に絶壁にせざるを得ないのだ。

垂直に近い断崖に囲まれていては、台地上の曲輪までよじ登ることは不可能だ。清色城を攻略するにはこの狭い通路を進まなければならず、侵入を試みた途端に上から弓矢やら投石やらでやられてしまうことだろう。まっこと恐ろしい城である。

たとえ入口を抜けたとしてもそこは深い堀の中であり、周囲の曲輪から狙い撃ちだ
城が機能していた当時はなかった木々が、城を守る兵のように私を見下ろす
縦横無尽に張り巡らされた空堀はまるで迷路のようだ

このように、清色城はシラス台地の地質的な特徴を巧みに利用した城となっている。清色城のみならずシラス台地が広がる南九州の中世城郭はいずれも共通した特徴を持つことから「南九州型城郭」と呼ばれている。

空堀から斜面を上がり、城の中心に位置する曲輪「本丸」へ
次の曲輪へ行くには一度堀へ下りなければならない
本丸の隣にある「中之城」も、本丸と同じくらいの高さだ

織田信長の安土城をはじめ、近世の城郭は城主を頂点とし、その麓に家臣を住まわせるという、主従関係がハッキリした構造となっている。中世の山城でも山頂から雛壇状の曲輪を設けることで序列を作ることは可能だ。

しかしながら、南九州型城郭は同じくらいの高さの曲輪が並存しており、しかもそれぞれが空堀によって分断された独立性の高い構造となっている。これは城主と家臣に絶対的な主従関係がなく、いわば横並びであったことを示しているのだ。城の構造から当時の薩摩国における武士の実情が垣間見れて、とても面白いですな。

一番端の曲輪には見張り台が設けられている。当時は辺り一帯を見渡せたことだろう

江戸時代に入ると一国一城令により薩摩国では鹿児島城以外の城が廃止となったものの、家臣たちは鹿児島城下に集住することなく(というかあまりに武士が多すぎて鹿児島城下に集住させられず)、各城跡の麓に住み続けて地域の統治を行っていた。

入来においても清色城跡の麓に統治拠点の「地頭仮屋(じとうかりや)」が置かれ、その周囲に武家町が形成されている。

城山に隣接して、かつて地頭仮屋があった入来小学校が存在する
水堀も残っており、ちょっとした城のような構えだ

このような薩摩藩独特の統治形態は「外城(とじょう)制」と呼ばれ、現在も鹿児島県の各地に「麓(ふもと)」と呼ばれる武家町が残っている。入来の麓にもかつての武家町の風情を残す町並みが現存しており、国の重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建)に選定されている。

今もなお武家町の景観を色濃く残す、入来麓の町並み
直線的な路地に、川原石で築かれた石垣や生垣が続いている
立派な茅葺の門も見られ、実に武家屋敷らしい風格ある佇まいだ
武家屋敷の様式を踏襲しつつ近代に建てられた「旧増田家住宅」は重要文化財である
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四つの城域から構成される「志布志城」

二箇所目は鹿児島県の東部に位置する志布志(しぶし)市の志布志城だ。志布志は古くより港町として知られており、江戸時代には琉球を介した清との密貿易により「志布志千軒町」とうたわれるほどの繁栄を見せていた。

現在は「志布志市志布志町志布志の志布志市役所本庁・志布志支所」でおなじみだ

志布志城は港を囲むように連なるシラス台地上に築かれた「内城」「松尾城」「高城」「新城」の四つの城域の総称であり、それらの中でも特に壮大な縄張を有しているのが「内城」だ。

志布志城の内城があったシラス台地の先端部を川越しに望む
志布志市埋蔵文化財センターにある内城の復元模型を見ればかつての姿がよく分かる

この内城をはじめ、四つもの城域が隣接していたのだから凄いものだ。志布志城の広大さと共に、港町としての重要性がうかがえるというものである。

現在、「高城」と「新城」は志布志中学校の敷地になっているので立ち入りできないが、「内城」と「松尾城」は登ることが可能である。そのうち特に南九州型城郭の特徴を見せる「内城」の様子を紹介しよう。

志布志城「内城」の入口もまた、垂直にそそり立つ断崖に挟まれた通路となっている

この大手口(城の表口)には民家があったらしく、コンクリートの壁が残っているので狭く見えるが、清色城の入口よりは幅がある感じだ(民家を築く際に壁面を削って拡張したのかもしれない)。

もっとも、このすぐ先で通路が狭まっているので、敵軍が城内になだれこむことはできず、右上部の曲輪から放たれる矢弾の餌食になること間違いない。あぁ、恐ろしや、恐ろしや。

道なりだと左に進みそうになるが、右へ上がるのが本丸への道だ
さらに曲輪に挟まれた空堀を進まねばならず、命がいくつあっても足りないだろう
本丸は土塁(土の壁)に囲まれており、背後は深い空堀であるなど、守備は堅い
本丸から堀へ下りていくと、視界に飛び込んできたのは――
極めて狭い、搦手口(城の裏口)の堀切であった

おぉ、実に鋭く切られた堀切ではないか。下部が土に埋もれているように見えるのは、おそらく何度かに渡って堀切の壁が崩落したためだろう。かつてはより深く、狭かったに違いない。

搦手口から本丸背後の空堀を進んでいくと、ほどなくして志布志城における最大の見どころ「大空堀」にたどり着いた。

「大空堀」という文字通り、極めて大きく掘り込まれた堀である

現在でも高さ約17mと十分に大きな空堀であるが、当時はさらに7mほど深かったというから驚きだ。

あまりに大きい堀なので最初は流水が築いた浸食谷かと思ったが、中央部が最も窪んでいるなど自然の地形にしては不自然である。これもまた人工的に掘り込まれたものなのだ。

――という感じで大手口から本丸、搦手口、大空堀まで周ることができたが、これら以外の曲輪や堀は未整備のようで、草に覆われていて散策は難しい感じであった。今後の整備に期待である。

本丸の北側に続く曲輪にも登ってみたのだが――
整備されてはおらず、一面に草が生い茂っていた

志布志城もまた一国一城令で廃城となったものの、内城の南側(現在の志布志中学校)に地頭仮屋が置かれ、その周囲に麓の武家町が形成された。

現在に残る町並みは重伝建でこそないものの武家町の風情を残しており、三箇所の武家屋敷庭園が国の名勝に指定されている。

「内城」と「松尾城」を隔てる谷筋に続く、かつての武家町
各所に湧水があるなど、とても豊かな環境である
名勝指定の武家屋敷庭園もコンパクトながら見事なものだ
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広大な規模を誇る南九州型城郭の代表格「知覧城」

最後は薩摩半島の南部に位置する南さつま市の知覧城だ。知覧といえば太平洋戦争末期に特攻隊の基地が置かれた悲しい歴史で有名だが、知覧城および麓の武家町が存在する地域拠点でもある。

知覧城は城域の内部に車道が通っている

この写真だと山間部を車道が通っているだけのように見えるかもしれないが、この写真に見える山はすべて知覧城の一部である。右側に見える山塊が知覧城の中核部を構成する曲輪群で、左側や奥に見える山はそれを取り囲む曲輪なのだ。

ミュージアム知覧にある模型を見ると、知覧城の構造が分かりやすい

知覧城は雨水が作り出した浸食谷を空堀として利用しており、特に規模が大きく南九州型城郭の代表格と評されている。

城の中核部を取り囲む空堀は幅も高さもずば抜けている
堀から曲輪を見上げると、やはり垂直に切り立った断崖であることが分かる

あまりに堀が広いので清色城や志布志城のような圧迫感は少ないが、これだけ広大な城郭ということはそれだけ多くの兵を収容できるということだ。

谷間に入り込んだ途端に見張りの兵士に見つかり、たちまち全方位から矢が飛んでくることだろう。台地上の曲輪にたどり着く前に討たれること必至だ。

左右の曲輪へ上がる分岐点も広々としており、数多くの兵が詰められたことだろう
各曲輪への入口には敵の侵攻を止めつつ横矢を掛けられる桝形が設けられている
本丸には立派な石碑が立っていた(中世城郭は碑があるだけでも大したものだ)
各曲輪を取り囲む土塁も残っている

一般的に土塁は土を盛り固めて築くものだ。しかしながら知覧城では曲輪の縁を残しつつ、その内側を掘り下げることで土塁を築いている。掘りやすいシラス台地ならではの、削り出しの土塁なのだ。

なお、知覧の武家町は城の麓ではなく北へ3kmほど離れた川沿いに位置している。これは知覧城が廃城になった後に集落を移転したためだ。現存する町並みは江戸時代中期に整備されたもので、重伝建に選定されており全国的にも有名だ。

直線的な路地にダイナミックに刈り込まれた生垣が続く知覧麓の町並み
武家屋敷の門の奥には目隠しの屏風石があるなど、琉球の影響が見て取れる
武家屋敷にはそれぞれ個性的な庭園が築かれていて面白い
計七箇所の庭園が国の名勝に指定されており、庭園巡りが楽しい町並みだ

加世田と出水にもある麓の武家町

なお薩摩半島の南西部に位置する加世田(かせだ)、および鹿児島県の北西端に位置する出水(いずみ)にも重伝建に選定されている麓の武家町が存在するので、併せて紹介しよう。

地形に沿って緩やかに湾曲する路地に武家屋敷が連なる加世田麓
江戸時代中期に開削された益山用水が町並みのアクセントとなっている
加世田にも中世城郭があったが、学校用地として山ごと崩され、現在は公園だ
国境の要衝として重視されていた出水の麓集落は特に規模が大きい
実に散策のしがいがある町並みが広がっている

侵入者の視点で見るとあまりに恐ろしい南九州型城郭

今回は鹿児島県にある三箇所の南九州型城郭と麓の武家町を紹介させて頂いた。シラス台地の特性を利用して築かれた断崖絶壁の山城は、敵を寄せ付けない迫力があるものだ。

侵入者の視点で城内を歩いてみると、常に高所を取られるため、まったくもって生きた心地がしない。また深く狭い空堀は薄暗く、そういう意味でもちょっと怖い雰囲気だ。

なお南九州型城郭は鹿児島県のみならず、シラス台地が広がる宮崎県や熊本県にも存在する。普通の城とはちょっと違う、迫力ある土の城が見たければ、南九州型城郭がオススメだ。

宮崎県宮崎市にある「佐土原(さどわら)城」もまた迫力ある堀切を見ることができ、侵入するのが恐ろしい城である

 

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