独仏共同出資の放送局「アルテ」(ARTE)はチェコの元大統領バーツラフ・ハベル(Vaclav Havel)が亡くなって今年12月で10年目を迎えることを受け、ドキュメンタリー番組を放映した。番組のタイトルは「バーツラフ・ハベル、自由な人間」だ。
ハベルは旧チェコスロバキア共産党政権崩壊直後の最初の民主選出大統領(1989~92年)であり、連邦解体後、チェコ初代大統領(1993年~2003年)を務めた。ハベルは東欧の民主改革の立役者としてポーランドの自主管理労組「連帯」の指導者レフ・ワレサ氏と共に国際社会で多くの名誉と称賛を勝ち得てきた。
ハベルは反体制派グループ「憲章77」のリーダーであり、劇作家だった。「憲章77」とは1977年、ハベル、哲学者ヤン・パトチカ、同国の自由化路線「プラハの春」時代の外相だったイジー・ハーイェクらが発起人となって、人権尊重を明記した「ヘルシンキ宣言」の遵守を求めた文書だ。挫折した「プラハの春」後の第2弾のチェコの民主化運動の出発点となった。そして1989年11月、ハベルら反体制派知識人、元外交官、ローマ・カトリック教会聖職者、学生たちが結集し、共産政権に民主化を要求して立ち上がっていった。これが通称“ビロード革命”(1989年11月)と呼ばれる民主革命だ(「『プラハの春』50周年を迎えて」2018年8月10日参考)。
「プラハの春」20周年を迎えた1988年8月、プラハのモルダウ川沿いにあったハベルのアパートで単独会見したことを今も鮮明に思い出す。ハベルの自宅周辺は私服警察によって厳重に監視されていたこともあって、当方はかなり緊張した。約30分間ほどのインタビューだったが、最後の質問の時、ハベルは、「自分は英語では十分に話せないので、チェコ語で答えるから、ウィーンに戻ったらチェコ人に通訳してもらってほしい」と語った。当方はハベルから自筆サインをもらうと、素早くアパートから離れた。
また、ハベルが1989年、プラハのヤン・フス像広場でデモ集会した日を思いだす。集会の日の夕方になると、多数の市民が広場に集まってきた。同時に私服警官がデモに参加する市民らを監視していた。市民は散歩するような様子で広場周辺に近づく。当方は反体制派からデモ集会開催の時間を聞いていたから、広場で観光客のような恰好で時間がくるのを待った。
デモ集会の時間がきた。広場には緊迫感が漂う。1台の小型車が広場に近づき、車から誰かが降りてきた。ハベルだ。彼は直ぐにフス像に近づき、天に向かってVサインをした。すると広場にいた多数の市民が一斉にハベルのところに集まった。私服警官はハベルの周囲を囲む、ハベルは紙を出して何かを読み上げていた。当方は写真を撮ろうとしたが、私服警官がカメラの前にきて妨害。集会は短時間で解散させられた。多くの市民が拘束された。当方はデモが解散させられると、直ぐにその日宿泊す予定の宿に向かったが、私服警官が追ってくるのではないかと内心ひやひやした(「『ビロード革命』の3人の主役たち」2014年11月16日参考)。
ハベルはタバコを手から離さない。共産政権下の反体制活動家にはヘビー・スモーカーが多いが、ハベルもその1人だった。彼は通算5年間の刑務所生活を送っている。喫煙は唯一の楽しみだったという。しかし、それがハベルの健康を害した。10年前の2011年12月18日、75歳で死去した。ハべルの葬儀(国葬)にはクリントン米大統領夫妻(当時)、サルコジ仏大統領(同)ら欧米社会の首脳たちが参列した。
ビロード革命を推進したハベル、イリ・ハイエク外相(当時)、そしてトマーシェック枢機卿はいずれも亡くなった。チェコスロバキアは1993年1月、連邦を解体し、チェコとスロバキア両共和国に分かれた。両国とも現在、欧州連盟(EU)と北大西洋条約機構(NATO)の加盟国だ。
ハベルと45年間付き添ってきたオルガ夫人が亡くなった時、ハベルは、「オルガは自分にとって妻だけではなく、母親であり、姉だった。常に自分の傍にあって支えてくれた人間だった」と述べている。ハベルは刑務所に拘留されていた時、3歳年上の妻オルガに手紙を書いた。後日、「オルガへの手紙」となってまとめられ出版されている。ハベルはオルガ夫人が亡くなると、その1年半後、女優と再婚した。その時、多くのチェコ国民はオルガゆえにハべルの再婚を余り歓迎しなかった。
アルテ放送の番組の中でハベルは、「自分は捕まった時は彼らの要求や命令を直ぐ受け入れたよ。しかし、心の中では自分の信念は変わらなかったから、最後は自分が勝つんだ」と述べている。刑務所生活では、「希望はなかった。しかし、失ってしまった希望を見付けられるという希望だけは捨てずに耐えてきた」と語っている。
ハベルは労働者階級の出身ではなく、裕福な資産家の家庭出身者だ。彼は自由を愛し、ドラマを書いた。そのハベルが反体制派活動家となり、最後は大統領になった。歴史がハベルを使い、東欧共産圏の民主改革を推し進めていったのだろう。ハベルは本来、政治家ではなかった。ハベル自身、「自分は冒険家ではない。ひょっとしたら歴史の中で出てきた間違った登場人物ではないか。自分の人生の歩みは童話であり、悲劇であり、喜劇だ」と語っている。
チェコ国民はハベルを敬愛してきた。それは、大統領時代の功績というより、反体制派活動家として民主化のため命がけで戦った人間・ハベルの姿を忘れることができないからだろう。それは当方にとっても同じだ。アルテ放送の語り手は、「ハベルはチェコと国民に自由を与えてくれた」と評している。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年8月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。