信長の筆頭家老だった佐久間信盛はなぜ追放された?

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NHK大河ドラマ「どうする家康」は、瀬名と信康がわけのわからない消え方をしましたが、もうひとつ、なんで消されたかよく分からないのが、信長の筆頭家老だった佐久間信盛です。

先週のエンディングで、信長から「二度と顔を見せるな」といわれてしまいましたが、実際に追放されたのは、もう少し後のことです。

そこで、「令和太閤記 寧々の戦国日記」(ワニブックス)から関係の部分を少し短縮して紹介してみましょう。昨年の本ですが、秀吉の目から見た「どうする家康」というべき本ですから、面白いと御見ます。

秀吉が中国攻めの司令官として奮闘していた頃、荒木村重さまが反乱を起こされたが片付けられ、備前の宇喜多さまも信長さまの側につきました。

そして、頑強に抵抗していた石山本願寺も、帝の斡旋をお願いして大坂から退去することになりました。

丹波では天正7年(1579年)の6月、八上城の波多野秀治さまが、明智光秀さまに降参し安土に送られました。光秀さまが助命を約束していたのに、信長さまはこれを磔にされました。

こうして、畿内とその周辺からは信長さまに刃向かう者はいなくなった一方、信長さまが、家来たちや同盟者に対しても横着なのも目立つようになりました。

石山本願寺が退去したあとの、翌天正8年(1580年)8月には、本願寺攻めの司令官だった佐久間信盛さまが追放される事件が起きました。織田家家臣でも筆頭格で、秀吉の大先輩に当たる方ですから、私もびっくりいたしました。

佐久間信盛 『長篠合戦図屏風』成瀬家本より

8月2日に信盛さまは、顕如さまの子で最後まで抵抗していた教如さまの本願寺退去を検視する勅使として、松井友閑と共に再び同行されました。ところが、25日、信長さまから19ヶ条の折檻状をもらったのでございます。

内容を簡単にまとめると、石山本願寺相手に戦も調略もせず消極的で、光秀、秀吉、勝家のような成果を上げていないし、信長の意見を聞きにも来なかった。三方ヶ原の戦いでも兄弟・身内やしかるべき譜代衆に一人も死者をだしていない一方、平手汎秀を見殺しにした。

各地の武将を与力につけたが活かしてない。家康の伯父の水野信元が武田に通じていると信盛がいうので成敗したのち、刈谷城をやったのに、水野の旧臣を使わずに追放し、新規に召し抱えもせずに金銀を貯めているなどもってのほか。

内容はもっともと言えば、そうなのですが、引退させるくらいならともかく、追放までするのは酷すぎる、秀吉も今はいいが将来は大丈夫かと心配になりました。

のちに、明智光秀さまが謀反をされたのも同じ気持ちからだろうと思うのです。信盛さまは、結局、翌年に熊野のほうの温泉で療養しているうちに亡くなりました。

ともかく、佐久間信盛は分かりにくい人物です。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の7ヶ国の与力をつけられていたというのですが、居城はどこだったのか記事を見たことありません。

尾張での本拠は熱田の南東にある山崎城、あるいは鳴海城ですが、近江の永原城(野洲市)、三河の刈谷城、摂津の天王寺城も居城です。

※ 追放されたあとの佐久間信盛がどうなったのか、不明である。熊野方面で死んだらしいが、子の信栄が2年後に赦免されているので、古参役員が退職金なしにクビになったといったところ。嫡子の信栄は、本能寺の変の年に岐阜の信忠の家臣として取り立てられ、信雄にに仕えたり、秀吉のお伽衆とし、子孫は旗本となった。江戸時代の旗本には、佐久間姓の者が多くおり、彼らの一族のようだ。軍学者である松代藩の佐久間象山も一族だ。

※ 佐久間信盛と一緒に追放されたなかには、林貞秀(佐渡守。信長が子どものときから仕え、筆頭格の家臣だった。昔、弟の信行を跡継ぎにしようという陰謀に加担したのが理由だった)、安藤守就(西美濃三人衆の一人)、丹羽氏勝(丹羽長秀とは関係ない)がいる。

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