読解力は読書から

アゴラ 言論プラットフォーム

私どものお客様の95%は非日本人。一部は日本語を理解する人もいますが、大半はアニメの写真や絵コンテ、原画集、及び関連グッズがお目当てです。そこで毎回ターゲットを絞り、今回はこの作品を中心に売っていこうという戦略を立て、ディスプレイも強くそれを押し出す、そんなやり方がしています。今回のターゲットは「佐々木と宮野」で完売しました。

kohei_hara/iStock

店先に立ち、切れることがないお客さんを眺めていて日本人が本を手に取らないことに売り上げがどれだけ良くても募る危機感の方が上回ってしまいます。私どもが仕入れる大手取次さんとは密なやり取りをしていますが、あまりにも普通の本が売れず、申し訳ないぐらいに思っています。最近の直木賞や芥川賞受賞作品は我々から見ると違う世界の違う作品で「賞を取った?だから何?」という感じになっています。

私はそれなりに読書はしてきましたが、10年ぐらい前にある方から「『坂の上の雲』を読んだことがないのですか?」と若干小ばかにしたように言われたことがあります。

私が司馬遼太郎作品で一番最初に読んだのが「この国のかたち」(全6巻)であまりにも難解で続けて2回通読し、その後も折に触れて部分だけを参照にしているので本が線や折り目だらけでくちゃくちゃになっています。そんな時に司馬遼太郎の小説も読んでみるかと読み始め15年ぐらい。今でもゆっくり読み続けています。「坂の上」もちろん、読みました。特上の作品でしたね。

司馬遼太郎作品は中高生時代から読んでいた、という強者とも何人か接する機会があり、へぇ、小説でもなかなか骨があるものが多いけれどそれをそんな若い時に読めるのか、と感嘆したものです。

難しい本と言えば私は中学2年の時、フィッツジェラルドの「ギャツビー」を夏休みの読書感想文課題で書き、それで区のコンテストで優秀賞をもらったことがあります。小学校の時にはジュール ベルヌの「地底探検」で区の最優秀賞をもらったこともあり、全校朝礼の時、それを朝礼の台の上で読み上げたのは良い思い出です。

「地底探検」はストレートに子供向けですが、「ギャツビー」は20世紀の小説ベスト10に入るような作品で今、考えてみれば時代背景をほとんど理解せずによく感想文なんて書けたな、と恥ずかしい想いです。

日経ビジネスのオンライン版で「AI未満人材、教育劣化ニッポンの現実」と言うのありました。記事で引用されているのは国立情報学研究所、新井紀子教授著の「AI vs.教科書が読めない子どもたち」でこれは少し古い本になりますが、ノンフィクション系のロングセラーになっているようです。私もこれは発刊後すぐに読みましたが、衝撃です。日本人に読解力がないのです。つまり、日本語が読めるけど意味が分からない、そういうことです。

私はいろいろなシーンで若い日本人の方と接することが多いのですが、会話が成り立たないケースが時折あるのです。別に私が小難しい話をしているわけでもないのですが、余りに立ち位置の土台が違い過ぎるのです。多分、日常生活に於いて「生活の知恵」「知識の泉」を全く必要としないのでしょう。

最近、ある方と面接をしました。当地の有名な大学の経済学部を卒業した方です。「経済学の何を勉強されましたか?」「ミクロ経済…」「その何を勉強されましたか?」「えぇっ、そんなこと聞くのですか?えーっとー」で沈黙になってしまいました。情けないの限りですが、外国の大学出すらそんなものなのです。(個人的には普通に卒業できたとは信じがたいです。)

取引の関係上、日本の一流企業にお勤めの方ともやり取りをしますが、正直「一流」を感じる人が少なくなりました。与えられている職務を受動的にこなしているだけで知識の広がりがないのです。そりゃそうです、範囲以上のことをすれば「越権行為」で社内的には禁じられています。つまり、知識はごく限られた社内のルールに基づく社内の知識だけでよいのです。「他社との比較ですか?ちょっとわかりかねます」。このレベルなのです。

これは別に日本だけの問題ではないと思っています。世界中の若者は本は読まないし、生活の知恵も必要ではなくなったのです。AIが解決するし、支援もしてくれます。我が母校が巨額の費用をかけて大図書館を建築中ですが、「さて、誰がそこで本を読むのだろう?」と果てしない疑問符がつくのです。

我々が機械に使われる日が必ずやってくるのだろう、という想いが日々強くなる今日この頃です。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年6月13日の記事より転載させていただきました。

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