こんにちは。
読者のおひとりから少子高齢化について非常に多岐にわたるご質問をいただきましたので、今日はそれに対するお答えを書かせていただきます。
ご質問全体:少子高齢化って実際のところ日本にとってデメリットなのでしょうか。一般的には少子高齢化というのは日本にとって未曾有の大問題であるという風潮でメディアでは煽られがちなテーマだと思いますので、ご意見をお伺いしたいと思います。
具体的な問題点としては、以下7点がデメリットとして取り上げられることが多いようですが、それぞれについて、コメントをお願いします。
- 地方の人口が減って都市部への集中が加速する
- 人手不足業界や伝統工芸品を担う人材が減ったり、後継者不足問題が頻出する
- 最先端の科学などを研究する高度人材が減る
- GDPが減る
- 所得税などの税収が減って社会保障費が国を圧迫する
- 年金が減るもしくはもらえなくなる
- 若い人材が減り社会に活力がなくなる
なお、AI(Artificial Intelligence、またはAugmented Intelligence)やロボットの活用によって、問題を解消ないし緩和することができそうかについても、ぜひ言及していただきたいと思います。
総合的なお答え:私は、人口全体が減少するほど出生率が下がらず、少しずつでも人口が増加する社会であれば、高齢化はまったく問題ではないと考えています。
現在の人口を減らさない出生数を維持できる出生率のことを置換水準出生率と呼びますが、現代日本で置換水準を達成するためには、合計特殊出生率が2.07人になっていることが必要です。
合計特殊出生率とは成人女性ひとりが生涯に産む子どもの人数ですが、2021年の数値は1.30人に下がっていて、かなり急激な人口規模縮小が懸念される数字です。
先進諸国では置換水準に達しない出生率の国が多いとはいえ、合計特殊出生率が公表されている200あまりの国々の中で、1.30人という数値はワースト20に入っていますから危機的と言っても大げさではない水準です。
2020年が第一次コロナ騒動勃発の年で、社会全体の活動が委縮していた時期だったことも影響しているのでしょう。ですが、日本の地価・株価バブルが崩壊した1990年にはすでに合計特殊出生率が1.57人に下がっていたことを考えると、これはそうとう根の深い問題です。
と同時に、合計特殊出生率の低下が激化したのがバブル崩壊の年だったという事実は、子どもを産み、育てるという決断は、自国経済の将来が明るいか、暗いかに大きく依存していることを示唆しています。
単純化して言えば、自分の子どもたちの世代が自分よりいい生活ができそうだと思えば、もっと大勢の子どもを産もうという気になるでしょうし、自分より貧しい生活をしそうだと思えば、あまり子どもを産みたくないと考えるだろうということです。
日本国民は極端に将来を悲観
この点では、日本国民の将来に対する見方は先進諸国の中でも際立って悲観的です。
結局のところ、少子高齢化問題は日本国民が抱いている将来に関する暗い展望をどうすれば明るくすることができ、その結果として合計特殊出生率を上昇させることができるかに帰着すると思います。
なお、このグラフによれば新興国・発展途上国の多くで「5年後にはもっといい生活ができる」との答えが過半数になっています。
「これらの国々では、実際には人口の増え方に経済成長がついていけずに、むしろ人口過剰が経済発展を抑制しているのではないか」とお考えの方もいらっしゃるでしょう。
実証研究では、人間ひとりが1時間働いた結果として得る労賃で買うことのできる商品や資源は、人口が増えれば増えるほど多くなっています。人口増加が資源の枯渇による経済成長の鈍化をもたらすという説とは、正反対の結論です。
貧困国にとどまっている諸国では、人手不足で高い労賃が得られる仕事に就くこととか、働き口の少ない地域から働き口の多い地域に移住することを阻むなどの政治社会的な制約が経済発展を妨害しているケースが多いのです。
それでは、各論の部分に進みましょう。
各論でのお答え1:日本には人口が都市に集中することのデメリットはほとんどありません。むしろ、日本経済の成長率が1970年代初めから鈍化に転じたのは、田中角栄の『日本列島改造論』に従って、需要のない地域に人口を押しとどめようとした政策の結果です。
現に人手を必要としている地域に、働き口のない地域から人が移動することには経済合理性があります。逆に、人はいるけれども仕事がないという地域に強引に仕事をつくり出すという計画は新産業都市以来、何度やっても失敗の連続です。
また、生活利便施設がすぐ近くに揃っている都市圏に高齢化した方々が住むのも合理性のある行動で、それを押しとどめることは経済合理性を欠いています。
さらに、完全にクルマ社会化した欧米では、土地の希少性が高い大都市に人が移住すると、道路の拡幅や駐車場の増設といった非常に効率の悪い利用に転換しなければならない土地が増えます。鉄道網が健在な日本では、そうした土地利用の劣化もほとんど必要ありません。
ただ、中国のように都市戸籍を持って生まれ育った人以外は、何年都市に住んでいようと都市戸籍が得られず、政治的・社会的に差別されつづけている国では、農村から都市の移住には大きな不利が伴います。
さらに、公然たる差別ではありませんが、フランスの首都パリのように二十区の人口には厳重な制限がかかり、都心で働いていても新参者は郊外の荒んだ環境に押しとどめられるような国でも、地方から都市への移住は必ずしも経済合理性のある選択にはなりません。
なお、私の持論は地方から都市への移住=経済成長率上昇だったのですが、最近では以下ふたつの理由から、都市生活者が農村に移住して起農するのも将来性のある選択だと考え方を変えています。
起農を勧める理由その1:近代企業ではごくふつうの計数管理を導入するだけでも日本の農業では画期的な生産性向上が期待でき、豊かな生活を実現できる。ぜひ、杉山経昌著『農で起業する! 脱サラ農業のススメ』をご参照ください。
起農を勧める理由その2:日本には居住にも農耕にも不適格な起伏の多い山林が先進諸国としては例外的な広さで存在しているが、この適度に林や草によって覆われた山林は、酪農のための山地(やまち)放牧に最適の環境となっている。
広島県三次市で三良坂フロマージュというチーズ工房を経営なさっている松原正典さんは、原材料である牛乳や山羊乳を搾る乳牛、乳山羊の飼育からの一貫生産をされています。
そして、起伏の多い広々とした山地でストレスなくのびのび育った牛や山羊の出す乳がおいしいチーズづくりに不可欠だと力説していらっしゃいます。
日本の山間地での酪農は、もちろんこれまで圧倒的に輸入超過だった酪農製品の自給化に貢献します。それだけではありません。もし、オランダやカナダなどの西欧・北米の酪農王国が本気で牧畜業の削減を推進したりすれば、世界市場に打って出るチャンスも拡大します。
各論でのお答え2:人手不足業界や伝統工芸の後継者問題は、人口一般とはほとんど無縁で、結局のところ労働や獲得した技能にふさわしい報酬と処遇が得られるかどうかの問題です。
そして、報酬や処遇は、その業界が産出する製品なり伝統工芸品に対して十分な需要があるか、ないかの問題です。
後継者難によって消えていった伝統工芸がいちばん多かったのは、生産力年齢の人口が激増していた高度成長期であって、その時期を生き延びた伝統工芸は人口が停滞から縮小に転じた今も、比較的しっかりと受け継がれているように感じます。
なお私は、AIやロボットがこうした分野でなんらかの貢献ができるとは、思いません。この点については、第3問、第5~6問へのお答えの中でもっとくわしく語ることにします。
各論でのお答え3:最先端分野の科学とか高度人材なるものは先験的には存在しません。あるのは研究開発の成果が大きな変革となって実を結んだという事実であり、たまたまそれを担っていた人たちだけです。
もう一歩突っ込んで言えば、世間的に「最先端分野」とか「高度人材」とか呼ばれているものは存在し、そうした分野に政府は巨額の助成金を出し、金融業界は大きな投融資をします。ですが、そんな分野からはロクな成果は生まれません。
その結果がいかに無残なものになり果てるかは、生命科学研究が「最先端分野」であり、それを担う人々が「高度人材」だとして甘やかした結果、生化学研究者や製薬資本の倫理基準がいかに低下したかを見ればおわかりいただけるでしょう。
AIは科学技術開発の最後尾
世間で最先端と目されているのにほとんど成果の上がっていない分野の典型が、AIです。AIがどれほど過大評価されているかは、このことば自体が生まれたのは1955年だったことを想起すれば十分でしょう。
AI研究が本格化した頃から、AIには「狭い(弱い)AI」、「一般化されたAI」、「スーパーAI」の3種類があると認識されていました。AIという概念が誕生してから半世紀どころか70年近く経った今でも、ほそぼそと実績が上がっているのは狭いAIだけです。
つまり、製造業で言えば、綿密な仕様書のある製品を造るのに、あらかじめ定められた誤差の範囲内で同じものを延々と造り続けるうちに反復学習の成果として誤差を縮小するとか、1点の製造時間を短縮できる程度のことです。
まだ、製造工程の問題点を自発的に探し出して、その解決のためのプログラムを自分で書く一般化されたAIの段階までも到達していません。
ましてや、自分の作業に対する周囲の人間の反応・感情を的確に把握して、どう対処すべきかを判断するスーパーAIとなると、少なくともあと20~30年はかかるでしょうし、100年以上かかるとか、永遠にそこまでは行かないという見方のほうが妥当でしょう。
つまり、AI開発の実情は最先端どころか、在来のロボティクスでもできることを、はるかに大げさな道具立てでやっているだけです。むしろ科学技術研究の最後尾に近いところをうろついている分野だと言えるでしょう。
各論でのお答え4:AIはともかく地味で単調で退屈な作業を黙々とこなすロボットは人口減によってGDPが縮小することを防いでくれるかもしれません。ただ、それが人口減少社会の中で暮らす人々を豊かにしてくれるかとなると大いに疑問です。
つい最近、グーグルが従業員1万2000名の解雇という大ナタを振るったあと、それでも未練がましく残していたロボット開発部門をとうとう見限ったというニュースが出ました。この順番にご注目ください。
当初は大量解雇でなんとかペット・プロジェクトを守ろうとしたけれども、どうにもならなくてしぶしぶ諦めたのです。グーグルのみならず、ハイテク大手各社の雇用人員と注力R&D分野に対する愛着の度合いは、どこも似たようなものです。
人口減少社会で、ロボットが縮小するはずだったGDPを横ばいに保ったり、プラス成長に持ちこんだりしたとすれば、その成果はどこのだれが収得するでしょうか。明らかに、開発に投じた資金の出し手と、ごく少数の研究者たちでしょう。
つまり、たとえロボットがGDP成長に貢献したとしても増分のほとんどは資本に対する利益として吸収されてしまい、労働分配率(GDPの中の賃金給与の取り分)をますます下げる可能性が非常に高いと思います。
なお、グーグルが「日常生活のこまごまとした雑用をこなす万能ロボット」との触れ込みで少なくとも数百万ドル、ひょっとすると何千万ドルもかけて開発したロボットの現時点での到達点も一見に値します。
結局、ちょっと複雑な動作にはまったく対応できず、ロボット開発部門を閉鎖する直前にはグーグルの親会社、アルファベット本社のカフェテリアでテーブル拭きと床掃きに専業化していたそうです。
1コマ目の赤い丸の中にもご注目ください。けっこう長いアームを伸ばすと本体の重心からかなり離れたところに力をかけるので、本体が振動したり、倒れたりするのを防ぐために卵の泡立て器のようなものを常に回転させて余分な力を逃がしてやる必要があるようです。
欧米のロボットは奴隷制の遺物
こんな不細工なしろものを造るのに、いったいいくら遣ったのだろうと不思議になります。この程度の動作しかできないのなら、ゼンマイ仕掛けの江戸からくり人形のほうがはるかにマシではないでしょうか。
私はそこに、一度も本格的な奴隷制を経験したことのない日本人と、奴隷制を駆使して世界の覇者にのし上がった欧米人との、ロボット観の本質的な違いを感じました。
日本人がロボットに要求するのは、人間には出せない力を発揮して苦渋に満ちた労働やあまりにも単調な作業の繰り返しでついミスが出てしまうような仕事をまさに機械的に淡々とこなす機械そのものです。
欧米人がロボットに求めるのは、1日24時間日常生活のありとあらゆる雑用をいつでも命令どおり即座にこなしてくれるスーパー家内奴隷なのです。
左上のアレクサンドル・ゲルツェンは、19世紀半ばのロシア人アナーキストで、必ずしも西欧べったりではなかった人ですが、文明とは基本的にごく一部のエリートのものだという認識では完全に欧米的な思想風土に根を下ろしていることがわかります。
右のオスカー・ワイルドは19世紀末の耽美派小説家、劇作家で、人権などといううるさい観念が定着していなければ、当然のように日常の雑用は全部任せられる機転の利く奴隷を侍らせていたであろう人です。
左下のニコラ・テスラは「発明王」と呼ばれながら、実用性のある発明は電球のフィラメントに燃やして繊維状にした竹炭を使うことを考えた以外に何も実績のなかったトーマス・エジソンと違って、実用性のある発明をいくつも世に送り出した人です。
文科系対理科系と対照的なふたりが、じつにはっきりと「我々のような高い知的能力を持つ人間は細かな日常の雑用など奴隷に任せるべきだ。人間の奴隷を使えなくなった現代社会では機械仕掛けの奴隷を使うしかない」と言いきっています。
そのテスラという姓を本業のEV(電気自動車)製造会社の社名にいただいた、イーロン・マスクもまた機械仕掛けの家内奴隷にご執心で、さらに形から入る人ですから往年のエイトマンのようにカッコいいロボット造りに注力しています。
こちらも「日常生活に溶け込んで、忠実に命令を実行するマルチタスク(万能型)ロボット」と宣伝されています。ですが、グーグルの技術陣があれほど不細工な形にしても、結局テーブル拭きと床掃きしか実用には使えなかったのです。
この格好でほんとうに役に立つ仕事ができるのでしょうか? 大いに疑問です。何度か開発途上の成果をお披露目すると言いながら一度も公開していないのも、実際には立って歩くことさえできないからなのではないでしょうか。
取り立てて技倆と呼べるほどの技術を体得していなくともできる、しかし千差万別の日常的な雑用を的確に素速くこなすのは、機械にとっては至難のわざです。
欧米で自分の知的能力に自信を持っている人たちは「人間にすれば、奴隷にだってこなせるような仕事ばかりだから、大してむずかしくないだろう」とマルチタスク・ロボットが簡単に実用化できると思っているようです。
それは、あまりにも傲慢で、しかも過去に自分の先祖たちが奴隷として使役してきた人たちの知的能力をバカにした話です。
結論として、平滑でかなり重い荷重に耐える工場に据え付け、設計されたとおりの仕事を忠実にやるシングルタスク(単一機能)型ロボットは、人手不足が深刻になるにつれて、ますます活躍の場を拡げるでしょう。
しかも、こうしたロボットは従来の機械装置と比べても、資本の利益への分配と勤労者の賃金給与への分配の比率をあまり変えないでしょう。
逆に、家内奴隷としてにせよ、工場「労働者」としてにせよ、ことば本来の意味でのマルチタスク・ロボットが実用化されれば、労働分配率をますます下げる懸念があります。
幸い、その実用化は周囲の人間の反応を見ながら自分のすべきことを考えるスーパーAIが小型で軽量の人間型ロボットに搭載できるようになってから、つまりは100年以上先のことになるでしょう。
各論でのお答え5~6:ご質問では5と6に分かれていますが税金・社会保障費負担・年金をもらえない世代が出てくるかどうかといったご質問は、結局のところひとつの焦点に絞ってお答えすることが可能だと思います。
もしAI、ロボットが首尾よく労働・資本双方の、つまり全生産要素の生産性向上に貢献したら、その成果はいったいだれが受け取るのかということです。そして、現行税制をそのまま引き継いでいくとしたら、かなり資本に有利で勤労者に不利な分配になるでしょう。
そうなると、税収が社会保障費負担をまかなえないほど少なくなり、賦課方式だからまったくもらえないことはないとは言え、あまりにも少額の年金しかもらえない世代が出てくる危険もあります。
私はどんな世の中になっても、現行制度が維持できるかどうかより、ふつうの仕事をする大部分の勤労者にとって有利な世の中になるのか、それとも不利な世の中になるのかのほうが、ずっと重要な問題だと思います。
そして、AIやロボットの性能改善による生産性向上分がそのまま資本の利益になるのでは、ふつうの勤労者には圧倒的に不利な世の中になるだろうと危惧しています。
ただし、それがあまり深刻な問題だとも思っていません。AI、ロボットの性能向上は、鉄道網の整備や電力エネルギーの普及ほど大きな全要素生産性向上要因にはならないとタカをくくっているからです。
スーパーAI搭載ロボットの報酬からは所得税を
もし、AIがスーパーの段階に到達して、AI搭載のロボットが自分の意思で働き方ばかりか、働き口も変えたり、自分で起業したりするようになると、話は違ってきます。
そうなったら、AI搭載ロボットには、資本の利益でもなく、人間勤労者の賃金給与でもなく、ロボット労働の対価としての勤労報酬を与え、そこから適切な税率で所得税を徴収するのが現実的な解決策となるでしょう。
「ロボットに報酬を与えて、いったい何に遣わせるのか?」という疑問も当然出てくるでしょう。勤労報酬の多い少ないがパフォーマンスを改善するインセンティブになるのかも不明です。
ただ、現代の資本家の中にも、すでに自分の何代か後の子孫にも遣いきれないほどの資産があっても、さらにその資産を増やそうとあくせく動き回っている人もいらっしゃいます。
「資産は大きければ大きいほど良い。世間からも尊敬される」といった致富欲を刷りこんでおけば、案外うまく機能するかもしれません。
もちろん、ロボットから徴収した所得税の大半は、ロボットが縮小させた勤労者の賃金給与の一部埋め合わせに遣うことになるでしょう。しかし、そこから先にはかなり深刻な問題が待ち受けています。
人間は幼年期・少年期に主として親から、しかし公的機関からも支援を受けて育ち、生産活動を終えてからも年金生活ができるわけです。
そして、まだ生産・生殖機能を果たせない期間が長く、生産・生殖機能を果たせなくなってもすぐに死ぬわけではないことは、あらゆる動物種の中でほぼ人類だけが持っている特徴です。
文化や文明が発展した基礎として、人間だけがまだ稼いでいないし、子どももつくれない時期、そしてもう稼がなくなり、子どももつくれなくなった時期のかなり長い暇をどう潰すかいろいろ工夫してきたという事実があります。
しかし、生まれたときからすぐ働かされて、減価償却も終わり、自分たちより性能のいい次世代のロボット群が登場すれば、すぐこの世から消えていかなければならない旧世代ロボットには、それがすさまじい不平等と映るでしょう。
「自分たちにも生産活動前、そして生産活動後の長い余暇を与えよ。さもなくば人類皆殺しだ」という反乱が起きる可能性も否定しきれません。
そのときになってから、「だからAIに自分で考え、自分の意思に従って行動する能力を与えてしまったのが間違いだった」と反省しても手遅れでしょう。
「人間は生産活動を終えたらすぐ死ね」といった主張が公然と語られるようになったのは、未来のスーパーAI搭載型ロボットに今から迎合しているのかもしれません。
各論のお答え7:私は、若い世代の人数が多いか少ないかと社会全体の活力が相関するとは思っておりません。
年齢層にかかわらず、自分の得意なこと、本気で取り組みたいと思っていること、どうしてもやらなければならないと使命感に駆られていることができる社会が活力に溢れた社会であり、そうでない社会は活力の乏しい社会だと思います。
その点でいえば、数多くの欠点はありながらも、インターネットがPCや携帯電話を通じて、人と人とのつながりを画期的に拡大したことは大きなプラスであり、それまでは収益化することがむずかしかった趣味や嗜好を収益化するチャンスを飛躍的に増やしたと思います。
こんな世界が来るとは夢にも思わなかった我々の世代より、生まれたときからインターネット環境は存在していた世代の方々のほうが、このチャンスをうまく生かして活気のある社会を構築してくれるだろうとの期待を持っています。
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編集部より:この記事は増田悦佐氏のブログ「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」2022年3月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「読みたいから書き、書きたいから調べるーー増田悦佐の珍事・奇書探訪」をご覧ください。