子どもの頃の夢を覚えているだろうか? それを叶えられた人はどれだけいるだろうか? 過去の良き思い出として胸にしまっている人は、もう1度、それを呼び起して欲しい。夢を叶えるのに遅いということはないはず。
なぜなら、今回紹介する酒井博生選手は47歳でデビューしたプロレスラーだからである。一般的に考えれば、40代を超えて現役のレスラーになる選択肢は考えられない。しかし彼は子どもの頃の夢を果たすために、2022年2月にプロのリングに立ったのだった。
・47歳新人酒井博生
酒井選手が所属するのは、神奈川県川崎市を中心に活動するプロレス団体「ヒートアップ」だ。2012年に設立し、川崎市多摩区で道場を開いている。
今年2月、北沢タウンホールのデビュー戦で藤波辰爾さんの息子LEONA選手と対戦し惜しくも敗退。以来、47歳の新人酒井博生のレスラー人生が始まった。
・ある日の練習風景
インタビューに先立って、酒井選手の練習を見学させて頂いた。その日は10時から昼12時までみっちりとトレーニング。まずはウォーミングアップで、ダンベル上げや懸垂など6種を30秒ごとにローテーションするショートサーキットからスタート。
15秒のインターバルを挟んで、次から次へと内容が変わる。1つひとつの運動負荷は軽いけど、それを続けるのは決して楽ではない。しかし彼はただ黙々と、身体を動かし続ける。
それが終わると総合格闘技の軽いスパーリングが始まった。合同練習のある火・水・金は、こうして他の格闘技の要素を取り入れて練習をしているそうだ。
1ラウンド3分の軽い立ち回りのスパーを繰り返し、続けてガチのスパーリング。実はこの日は、「第8代ウェルター級キング・オブ・パンクラシスト」のタイトルを持つ鈴木槙吾(しんご)選手が出稽古に来ていた。
鈴木選手は強烈な寝技で他の選手を手玉に取っている。もちろん酒井選手もその餌食に……。
1度ひっくり返されたら、もはや抜け出すことは困難。不可能と言っていいかも。ウウ~ッ! と、酒井選手の悶える声が聞こえる。
面白いように転がされて、47歳新人はヘロヘロである。
その後、突然始まったチョークスリーパー講座。鈴木選手から直々に手ほどきを受けていた。
・ここからが本番
まだまだ続くぞ、むしろここからが本番!
まずはマット受け身。「前転・後転」、「開脚前転・開脚後転・飛び込み前転」、「伸膝(しんしつ)前転・伸膝後転」、「倒立前転・倒立後転」、「三点倒立からネックスプリング」、「前転から受身ネックスプリング」、「肩から入る受け身(左・右)」、「受け身で往復」、「受け身を続けて3本」、「倒立受け身」などなど……。
多種多様な受け身をハイスピードでガンガン回していく。選手がマットに身体を打ち付ける度に、バーン! と炸裂音が道場に響く。その音に圧倒される。
そして2人1組になってスパーリング。実戦形式で立ち回りを繰り返し練習する。酒井選手はロープの反動でひたすら走り……。
タックルでひっくり返され……。
片手で放り投げられる。
走ってひっくり返って投げられて、また走ってひっくり返って投げられて。何度も何度も……。
2時間の練習の最後は車座になって反省会。お疲れ様でした……。
・「やんなかった方がずっと後悔してた」
佐藤「お疲れ様でした。練習、大変ですよね」
酒井「まあ、それが練習ですからねえ(笑)」
佐藤「酒井さんは自分と1つ違い(佐藤:48歳)なんですけど、どうして練習が大変なのにレスラーになろうと。そもそも前職は何をやってらっしゃったんですか?」
酒井「以前はスーパーのお惣菜担当でしたね。これを試合前にリング上でいうと、結構ウケるんですよ」
佐藤「そうですよね! だって、スーパーとプロレスでは大違いですもんね。それがまたどうして……」
酒井「道場に通い始めたのは2019年5月、44歳の時にジム会員として通い始めました」
佐藤「まだスーパーにお勤めの頃に、エクササイズ感覚で利用していたと」
酒井「そうですね。それでキックや寝技のクラスに通っているうちに、子どもの頃の夢がフツフツと蘇ってきたんですよ。プロレスラーになりたいってね」
佐藤「眠っていたものが目覚めた感じですかね」
酒井「年齢も年齢ですからずいぶん迷ったんですけど、それでもやりたいと思って、社長(ヒートアップ代表TAMURA氏)にお願いしたんです。プロになりたいと。言い出すのにかなり時間はかかったんですけどね」
佐藤「40代の決断は重いですよね。すごくわかります」
酒井「そうしたら社長に「週5で練習に来られるなら」と仰って頂いて。それで仕事を辞めました」
佐藤「え? そんなにスパッと?」
酒井「はい。社長もこの条件(週5で練習)なら諦めるだろうと思っていたみたいですけど、仕事辞めちゃったんですよね(笑)」
佐藤「社長さんもビビったでしょうね。飛び込んでくると思わないから(笑) それで練習生になったと」
酒井「2021年10月に練習生になって、その約4カ月後にデビューしました」
佐藤「どうですか? 夢を叶えた実感と言いますか、後悔みたいなものはないですか?」
酒井「ないです。正直、収入面でいえば、サラリーマン時代の10分の1くらいだし。週5で練習して毎週試合ですから。肉体的にもハードですよ。
それでも、後悔はないです。
はっきりわかるんです。やんなかった方がずっと後悔してたって。「やればよかった」って思うに決まってると」
佐藤「そう言い切れるところが素晴らしいと思います。思っていても、なかなかできないことってたくさんあるし、その決断を下せる人は意外と少ない気がします」
酒井「そうかもしれないですね。応援してくださるのは40・50代の人が多いんですけど、皆さん「勇気をもらった」って仰って頂いて」
佐藤「すごくカッコイイと思います。練習を拝見していて、グッと来ましたもの。できる限り続けて頂きたいです」
酒井「そうですね、これでもまだ新人ですから(笑)。少なくとも60歳くらいまでは続けていかないと」
佐藤「おケガに気を付けて、がんばってください。同世代の1人として応援しています!」
酒井さんのTwitterのプロフィール欄にはこう記されている。
「人生は自分で作るもの、遅いということはない。挑戦するのに年齢は関係ないということを証明し続けていくことが自分の使命だと思っています」
もしも胸の内にしまったままの夢があるなら、もう1度取り出してみてはいかがだろうか? 遅いということはない。それでも勇気が出ないのなら、酒井選手の試合を見てほしい。輝いて見えるから。
取材協力:プロレスリング・ヒートアップ、酒井博生 Twitter
執筆:佐藤英典
Photo:Rocketnews24