冷戦の最後の立役者が去った:スケープゴートとなったゴルバチョフ氏

アゴラ 言論プラットフォーム

モスクワからの情報によると、旧ソ連最後の指導者だったミハイル・ゴルバチョフ元大統領が30日、モスクワの病院で死去した。91歳だった。ペレストロイカを掲げて停滞するソ連の民主化に乗り出したゴルバチョフ氏が亡くなったことで、冷戦時代の終焉を演じた歴史的な立役者は全ていなくなった。

ゴルバチョフ氏(Arteのドキュメント番組からのスクリーンショットから)

ゴルバチョフ氏(Arteのドキュメント番組からのスクリーンショットから)

冷戦時代の最後の立役者が去った

ゴルバチョフ氏の歴史的評価、その人物像は専門家に委ねなければならない。最近、独仏共同出資のテレビ局「ARTE」で放映されたゴルバチョフ氏の歩みをまとめた長時間ドキュメント番組を観た。国家が提供するハウスで雄猫と料理人など数人の人々との間の日常会話が静かに描かれていた。長い食卓に座って食事するゴルバチョフ氏の周りに、年老いた猫が散策する。ゴルバチョフ氏は猫に、「お前も歳をとったね。痩せて骨と皮だけになってしまった」と声をかける。番組はゴルバチョフ氏の日常生活を淡々と追っていた。それを観ながら、「世界を揺り動かしたゴルバチョフ氏の晩年はどうだったのだろうか」と考えた。

同氏は番組の中で、「ライサが亡くなってから、生きていく意味がなくなったよ」と呟くシーンがあった。モスクワ大学の学生時代に知り合って1953年に学生結婚したミハイルとライサは最後まで相思相愛の夫婦だったといわれる。部屋にはライサ夫人の大きな写真がかかっている。ロシアは正教国家で、家には聖母マリアなどイコンが飾られているものだが、ゴルバチョフ氏の家ではライサ夫人の写真が聖画より大きい。そのライサ夫人の写真の前で椅子に座ってジーッとしていることが多いという。ライサ夫人は1999年9月20日、67歳で亡くなった。ゴルバチョフ氏はライサ夫人を失って23年間あまり1人で生きてきたわけだ。「ライサが亡くなって以来、娘も孫たちも訪ねてこなくなった」という。

国から提供されたハウスに住んでいることもあって、ゴルバチョフ氏はプーチン現政権については批判的なことは語れなかったはずだ。エリツィン氏はプーチン氏に大統領の座を移譲する時、プーチン氏に、「自分の過去の不祥事に対しては不問にする」というアムネスティの文書に署名させている。政権を失った後の身の安全保障だった。程度の差こそあれ、ゴルバチョフ氏も同じだったかもしれない。ゴルバチョフ氏がある会合に参加した時、「プーチン氏は声もかけずに前を素通りしていったよ」という。

プーチン大統領がウクライナに軍を侵攻させたことをゴルバチョフ氏はどのように考えていたのだろうか。ゴルバチョフ氏やライサ夫人の家系はロシア系とウクライナ系が混じっている。ゴルバチョフ氏の母親はウクライナ人で父親はロシア人だった。ライサ夫人の両親はその逆だった。ロシアとウクライナ両民族は同じだという思いがあったはずだ。

ところで、当方はゴルバチョフ大統領時代の国防相を務めたドミトリー・ヤゾフ氏と1989年11月23日、ウィーン国際空港の貴賓室での記者会見で話したことがある。当方は日ソ両国間の最大懸案である北方領土の返還問題について質問した。ヤゾフ国防相は「その問題(北方領土)は既に解決済みだから、話しあう必要はない」と一蹴。「極東ソ連軍が強化され、最新鋭戦闘機のMIG31やSU27が配置されたという情報があるが、事実か」と聞くと、「他国がわが国の防衛戦略に干渉することはおかしい。どの機種をどこに配置しようが、それはソ連の問題だ」と強く反発した。同国防相は会見後、どう思ったのか知らないが、当方のところにきて笑いながら握手を求めてきた(「ソ連国防相ヤゾフ氏の『北方領土』」2016年11月29日参考)。

そのヤゾフ国防相は、ゴルバチョフ大統領夫妻(当時)を拘束した1991月8月のクーデター事件に関与した国家非常事態委員会メンバーの1人だった。クレムリンの保守派勢力がクーデターでゴルバチョフ夫妻を拘束し、3日間隔離した。ゴルバチョフ氏はどのような思いで拘束された地からモスクワに戻っていったのだろうか。その直後、エリツイン氏が台頭し、国民の支持を受けてトップに上り詰め、ゴルバチョフ氏はクレムリンから追放されていく。

ゴルバチョフ氏がクーデター後も政権を維持してペレストロイカを継続していたならば、ソ連は民主化されただろうか。それとも別の独裁国家となっていただろうか。歴史では「イフ(もし)」はないが、その後のプーチン時代を考えると、どうしても考えざるを得ない。

ゴルバチョフ氏は89年12月のブッシュ米大統領とのマルタ会談で冷戦終結を宣言、その功績で90年のノーベル平和賞を受賞するなど栄光に包まれたが、ロシアではゴルバチョフ氏へのシンパシーは大量虐殺をしたスターリンより低い。正教会など教会建物を破壊したスターリンより、信教の自由を復帰し、反体制派活動家を釈放したゴルバチョフ氏への評価は低いのだ。

1人のロシア専門家が、「ロシア人は上手くいかなくなると常にスケープゴートを探し出す。ロシアではソ連を崩壊させたゴルバチョフ氏がその役割を果たしているのだ」と解説していた。ロシアは後日、歴史の見直しが避けられなくなるだろう。ゴルバチョフ氏の冥福を祈る。

アメリカの大統領ロナルド・レーガン(右)とともにINF全廃条約に署名するゴルバチョフ Wikipediaより


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年9月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。